日常的に和服を着る女性を見かける機会は少なくなったが、浴衣についてはイベント用の衣装として一定の浸透を見せており、柄・素材とも多彩になっている。
平成の浴衣は、かつての湯上がり着の延長だった時代とは見違えるほど鮮やかでファッション性も高く、「ギャル浴衣」なども登場している。
デパートなどは開放的な水着ファッションと、隠して魅せる浴衣という二本柱で夏の商戦を仕掛けている。
ファッションとしての浴衣は男性にもある程度着られているが、女性ほど一般的ではない。
また、日常的に和服を着る男性は、女性と比べて少なく、作務衣・甚平が宗教関係者・職人など少数の男性に好んで着られているほかは、ほとんど見かけなくなっている。
一方で、男性の和服着用を推進する運動も、インターネットなどを中心に一部で起こっている。
1990年代後期からアンティーク着物(昭和初期以前のもの)やリサイクル着物(昭和中期以降)の店が激増し、雑誌を火付け役として女性の間で徐々に着物ブームが起こっている。
これまでと異なるのは、従来の約束事にこだわらず洋服感覚で着る人が増えたことである。
洋服地で着物や帯を作ったり、洋服と重ね着したり、足下にパンプスやブーツを履いたり、帯揚げにレースを使うなど新鮮な着こなしが楽しまれている。
第二次世界大戦が終わった1945年以降の女性たちは、空襲がなくなったので、所持していたが着られなかった和服を着るようになった。
終戦直後にはもんぺを着る女性も多くいたが、貧しさと戦争を思い出させるもんぺはすぐにすたれていった。
しかし、和服が高価であり着付けがわずらわしいことなどが原因となってか、安価で実用的な洋服の流行にはかなわず、徐々に和服を普段着とする人の割合は少なくなっていった。
ただし、1965年から1975年頃までは、和服を普段着として着る女性を見かけることが多かった。
その頃に和服の人気を押し上げ、流行させたのはウールで仕立てられたウール着物である。
ウール着物は色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本中の女性の間で流行となった。
しかし、その後も和服ではなく洋服を着る人の割合が増え、呉服業界(呉服業界とは、和服・反物の生産・販売の産業のこと)は不振に追い込まれた。
呉服業界が、販売促進の目的で、種々の場面で必要とされる和服の条件というような約束事を作って宣伝した。この結果、庶民は「和服は難しい」というイメージをより強く持つようになった。
この結果、呉服業界はさらに不振になり、反物など織物生産を担う業界の倒産が相次いだ。
1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性も多くいたが(1970年代までの漫画での描写からも伺える)、次第に姿を消していった。
1960年代の欧米の文化人やロックミュージシャンの間では、東洋的な思想や宗教が流行したことがあり、中には着物(あるいは着物に似せてデザインした服)を着る者も見られた。
ロックギタリストのジミ・ヘンドリックスなどが代表例。
1943年6月16日に日本の政府は、1940年11月2日の国民服令を緩和する国民服制式特例という勅令を施行した。
20世紀に日本の中央の政府(地方を除く)が国民服の様式を規定した法律は、国民服令と国民服制式特例だけであり、他にはない。
国民服制式特例の第1条により、礼装しない場合の国民服の上衣の色の指定はなくなり、礼装する場合の国民服の上衣と外套の色は、茶褐色、黒色、濃紺色、または白色のいずれかでよいとされた。
ただし、上衣と外套の白色を選べるのは暑い地方や暑い夏の時期に限られた。
国民服制式特例により国民服令の甲号と乙号が一つに統合されたという説があるが、国民服制式特例にそのようなことは書かれていない。