でも一方で、学校でも家庭でもどこでも、「道徳を教える」ということは日常的に行われていることでもあるわけで。
「チームのために自分が今何ができるかを考えなさい」
「自分にできることを一生懸命精一杯やったのか?」
「チームをまとめていくためには、まず自分が率先して頑張る姿を見せないと、まわりは絶対についてこないよ。まわりはリーダーがどこまでやって、どこまでなら手を抜いていいのか、無意識に見てるんだから。」
「他の人に迷惑をかけることは、絶対にしたらだめ。もっと他人のことを思いやりなさい。」
「自分が果たす役割を過小評価するな。お前がサボったら、誰がその穴を埋めるんだ?だったら最初から役割を任されるんじゃない。」
学校でよくあるお説教のパターン。
これって、道徳教育ですよね。
そもそも道徳は「道徳の時間」だけでなく、学校教育全般を通して行われる、ということになっているハズ。
人間としてこう考えるべきなんじゃないの?その行動ってみんなで行動してるときにどうなのよ?とかっていうのは、生活のあらゆる場面で出会うことだし、教師だろうが親だろうが、子どもに対してそういうことを投げかけずにはいられないハズだと、思うんですよ、本来は。
でも、これが機能しないことを、教育再生会議は指摘してるんでしょうね。
半分は当たってると思う。
でも、だからって、道徳を教科にすればいいかっていうと、そんな単純なものではないでしょう。
教材がどうとか、教科書がどうとか、言っているみたいですが、共通の教材と共通の教育方法を以って、共通の価値観を植えつけようとしているのだとすれば、恐ろしいことですね。
確かに、多くの人が共通して持っている「価値観」というのは世の中にたくさん存在するでしょう。
平和は大事、とか。
人に迷惑をかけるな、とか。
けど、それを絶対的真理として上から与えられ、身につけたかどうかを「評価」されるのは、ちょっと違うと思う。
学校にも家庭にも社会にも、すごくいろんな人がいて。
怒りっぽい人も、おとなしい人も、おもしろい人も、おしゃべりな人も、思いやりの気持ちの強い人も、自分勝手な人も、いる。
いろんな人がいるなかで、多くの人が共通して大事に思っていることが、本当の「道徳」なんじゃなかろうか。
学校の教員にもいろんな人がいて、いろんな生徒がいるから合う合わないもあったりするけれど、いろんな先生から教わることで、いろんな考え方も知ることができるし、一方で共通して必ず怒られることがあって、それはやっぱり守らなければいけないんだということを自然に学ぶことができる。
教科として「道徳を教える」ことは、結論としての絶対的真理を、
ドン!
と目の前に積み上げられた感じ。
子どもにとって、説得力をもつかなぁ?
まぁ、教科になったらなったで、教員はそれなりにうまく工夫して授業はできるでしょう。
評価だけ難しいけど、授業自体は、おもしろいと思う。
現実に道徳の授業研究だって行われているわけだし、専門家もいるし。
高校に「道徳」ができて、それを担任が授業できるなら、それはそれでおもしろいのかも。
小学校の先生にしてみたら、もうすでにやっていることなわけで、成績つけるだのなんだの余計な仕事が増えるだけでたまらないと思いますが。
子どもの中に、みんなのために、とか、チームのために、とか、国のために、とか、そういう意識が希薄になっているのは事実。
「国」に「公」を矮小化されるのはたまらないけど、大人が子どものために、もっともっと理想や正義を語らなくてはいけないのは、事実だろうと思います。
…なんだかまとまらなくなってしまいましたが…
「チームのために自分が今何ができるかを考えなさい」
「自分にできることを一生懸命精一杯やったのか?」
「チームをまとめていくためには、まず自分が率先して頑張る姿を見せないと、まわりは絶対についてこないよ。まわりはリーダーがどこまでやって、どこまでなら手を抜いていいのか、無意識に見てるんだから。」
「他の人に迷惑をかけることは、絶対にしたらだめ。もっと他人のことを思いやりなさい。」
「自分が果たす役割を過小評価するな。お前がサボったら、誰がその穴を埋めるんだ?だったら最初から役割を任されるんじゃない。」
学校でよくあるお説教のパターン。
これって、道徳教育ですよね。
そもそも道徳は「道徳の時間」だけでなく、学校教育全般を通して行われる、ということになっているハズ。
人間としてこう考えるべきなんじゃないの?その行動ってみんなで行動してるときにどうなのよ?とかっていうのは、生活のあらゆる場面で出会うことだし、教師だろうが親だろうが、子どもに対してそういうことを投げかけずにはいられないハズだと、思うんですよ、本来は。
でも、これが機能しないことを、教育再生会議は指摘してるんでしょうね。
半分は当たってると思う。
でも、だからって、道徳を教科にすればいいかっていうと、そんな単純なものではないでしょう。
教材がどうとか、教科書がどうとか、言っているみたいですが、共通の教材と共通の教育方法を以って、共通の価値観を植えつけようとしているのだとすれば、恐ろしいことですね。
確かに、多くの人が共通して持っている「価値観」というのは世の中にたくさん存在するでしょう。
平和は大事、とか。
人に迷惑をかけるな、とか。
けど、それを絶対的真理として上から与えられ、身につけたかどうかを「評価」されるのは、ちょっと違うと思う。
学校にも家庭にも社会にも、すごくいろんな人がいて。
怒りっぽい人も、おとなしい人も、おもしろい人も、おしゃべりな人も、思いやりの気持ちの強い人も、自分勝手な人も、いる。
いろんな人がいるなかで、多くの人が共通して大事に思っていることが、本当の「道徳」なんじゃなかろうか。
学校の教員にもいろんな人がいて、いろんな生徒がいるから合う合わないもあったりするけれど、いろんな先生から教わることで、いろんな考え方も知ることができるし、一方で共通して必ず怒られることがあって、それはやっぱり守らなければいけないんだということを自然に学ぶことができる。
教科として「道徳を教える」ことは、結論としての絶対的真理を、
ドン!
と目の前に積み上げられた感じ。
子どもにとって、説得力をもつかなぁ?
まぁ、教科になったらなったで、教員はそれなりにうまく工夫して授業はできるでしょう。
評価だけ難しいけど、授業自体は、おもしろいと思う。
現実に道徳の授業研究だって行われているわけだし、専門家もいるし。
高校に「道徳」ができて、それを担任が授業できるなら、それはそれでおもしろいのかも。
小学校の先生にしてみたら、もうすでにやっていることなわけで、成績つけるだのなんだの余計な仕事が増えるだけでたまらないと思いますが。
子どもの中に、みんなのために、とか、チームのために、とか、国のために、とか、そういう意識が希薄になっているのは事実。
「国」に「公」を矮小化されるのはたまらないけど、大人が子どものために、もっともっと理想や正義を語らなくてはいけないのは、事実だろうと思います。
…なんだかまとまらなくなってしまいましたが…