80年代、安井土井論争というのがありました。
「業界」ではけっこう有名な話なのですが。
いま改めて、「共感」が歴史教育に果たす意味を考えていかなければいけないと思います。
普段普通に世界史の授業をしていると、どうしても表面的な理解に陥りやすい。
今度辛亥革命の授業をするのですが、おそらく教科書どおりに説明すれば、清朝の改革と失敗の話、孫文の話、そして辛亥革命の過程と袁世凱の話、中国国民党の結成、軍閥の話なんかをすることになります。
これはこれで大切なこと。
ですが、なんというか、人間味がない気がするんです。
ほんとは歴史って、それぞれの人間が悩んだことの積み重ねのはず。
そういった部分を省略してもいいものかどうか。
例えば孫文の人生に密着しながら、孫文の視点から見た辛亥革命、というのを描けるんじゃないかとも思うのです。
そのために、安井俊夫先生(元中学校教師、愛教大)の「共感」の理論を勉強しなおしてみようと思っています。
その時代、その人間の立場にたって真剣に考えてみることで、真の科学的な理解、生きる力としての知識が身に付くとする理論(私なりの解釈ですが)。
ただ、それがために客観的な視点を失うのも問題がある。
「教科書どおりの説明」というのも、それはそれでやっぱり意味のあるものだから。
構造的にその時代の出来事を理解したり、因果関係で結んでみたりということもやらなければいけません。
同時に、歴史を「構成主義」的に捉えることも、絶対必要だと思っています。
歴史の授業では、いろいろなことを目標としなければならない。
この「目標」の構造化はいつか挑戦したいと思っていますが、ひとまずこの「共感」がどのような意味をもちうるのか、ちょっと検討してみたいと思っています。
「業界」ではけっこう有名な話なのですが。
いま改めて、「共感」が歴史教育に果たす意味を考えていかなければいけないと思います。
普段普通に世界史の授業をしていると、どうしても表面的な理解に陥りやすい。
今度辛亥革命の授業をするのですが、おそらく教科書どおりに説明すれば、清朝の改革と失敗の話、孫文の話、そして辛亥革命の過程と袁世凱の話、中国国民党の結成、軍閥の話なんかをすることになります。
これはこれで大切なこと。
ですが、なんというか、人間味がない気がするんです。
ほんとは歴史って、それぞれの人間が悩んだことの積み重ねのはず。
そういった部分を省略してもいいものかどうか。
例えば孫文の人生に密着しながら、孫文の視点から見た辛亥革命、というのを描けるんじゃないかとも思うのです。
そのために、安井俊夫先生(元中学校教師、愛教大)の「共感」の理論を勉強しなおしてみようと思っています。
その時代、その人間の立場にたって真剣に考えてみることで、真の科学的な理解、生きる力としての知識が身に付くとする理論(私なりの解釈ですが)。
ただ、それがために客観的な視点を失うのも問題がある。
「教科書どおりの説明」というのも、それはそれでやっぱり意味のあるものだから。
構造的にその時代の出来事を理解したり、因果関係で結んでみたりということもやらなければいけません。
同時に、歴史を「構成主義」的に捉えることも、絶対必要だと思っています。
歴史の授業では、いろいろなことを目標としなければならない。
この「目標」の構造化はいつか挑戦したいと思っていますが、ひとまずこの「共感」がどのような意味をもちうるのか、ちょっと検討してみたいと思っています。