monoyaomouさんにコメントいただいたのでさっそく追加で記事を書きたいと思います。

まず、「彼らが主張がもっている歴史認識としての危険性」について考えてみたいと思います。


私はこれについて、三つの観点を挙げたいと思います。


①彼らが描く歴史像自体について。

②彼らの歴史像の描き方について。

③彼らの主張の通し方について、あるいは主張を受け入れる社会の変化について。


今日のところは①について検討していきたいと思います。

(もしよろしければ「つくる会」ホームページの「趣意書」をご覧下さい。彼らの主張が端的にまとめられています)


まず特筆すべきは、アジア太平洋戦争について、日本の加害性を極力描かないようにし、逆に日本の被害の面を強く打ち出し、当時の社会状況においては戦争に向かっていくのはやむを得ないことだった、という歴史観が根底にある、ということでしょう。

このような歴史の理解をしているということが、諸外国、特に東アジアの国々の人々に対してどのような感情を抱かせるのかは想像に難くないし、現実に外交問題として表出してきています。

つまり、日本はあの戦争のことを忘れたのか、ひどい侵略をしておきながら、それを「記憶」から消し去るということは、また同じことを繰り返すのではないか、何も反省していないのではないか、そのように思われるわけですね。

「つくる会」の教科書叙述を危険視する立場の人は、やはりそういった諸外国とのかかわりは大事であるし、そもそも自分の「国家」「祖先」が犯した過ちについて、しっかり「記憶」し続けなければならない、そうすることによって過去の同じ過ちを繰り返してはならないと考えるわけです。

ですから、過去の「都合の悪い」侵略の事実を歴史叙述から葬り去ろう、日本人は日本を誇れる歴史を学べばよいのだとする「つくる会」の歴史像に対して異議を申し立てます。


アジア太平洋戦争以外の「日本史」に対しても、「誇りのもてる歴史」というスタンスは変わりありません。

神話に4ページも割かれていることに代表されますが、「日本」が古くから続くものであること(ここには万世一系の天皇ということもかかわってきますが、「つくる会」自体はそれほど天皇に固執していません)、他の文化と比べて優秀であったことが強調されています。

「日本」という「国家」の系統性の強調、そしてその古来から続く「日本」という「国家」の文化の優位性の語り、これらが歴史叙述の基本線といってよいでしょう。

つまり、彼らの「誇りのもてる歴史」を学ぶという主張を達成するために、極めて効率よく歴史的事実が選択され、配置されているわけです。

余談ですが、ある意味では学習指導要領をもっとも忠実に文章化した教科書であるとも言えるでしょう。

(これは大学の先生がおっしゃっていました。)


以前にもお話ししたように、一般に「歴史」は、ひとつの「ストーリー」として見られる向きが強いように思いますし、それは事実でしょう。

いろいろ問題はあるのですが、今日のところ問題にすると宣言したのはその「ストーリーの内容」についてです。

ここまで批判的に論を進めておいてこんなことを言うのもなんですが、実は私は彼らの描く「ストーリー」自体について、否定はしません。

なぜなら、「歴史」の数ある「ストーリー」の中のひとつであると考えるからです。

これまでの「つくる会」批判は、「彼らの歴史叙述は間違っている」という前提に立って議論が進められてきたように思いますが、私はそうは思いません。

確かに、歴史学の立場からすれば、実証性という面で、彼らの「歴史叙述」は多くの問題をもちます(このことは次回の記事で詳しく触れます)。

しかし、ひとつの「歴史」の「ストーリー」としては成立しえるわけですね。

子どもにとって、歴史の授業の内容も、歴史の教科書も、歴史小説も、三国志も、信長の野望も、「歴史」であることに変わりありません。

そういう立場に立って、歴史の授業を考えなければならないと思うのです。


私自身は、彼らの描くような「ストーリー」は、現在の社会を生きていくうえでの認識の前提となる「歴史叙述」としては甚だ不適切だと思っています。

なぜなら、皮肉にも彼らの作った教科書の前文にあるように、「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめるようにしよう。」と考えるからです。

日本の優位性のみをことさら取り上げ、都合の悪い事実は隠蔽する、そのような歴史叙述は説得力をもたないし、もっと現在のグローバル化された社会を認識していくうえで必要な歴史叙述が他にあると思います。

少なくとも、内にも外にも、「日本人」以外の他者への視線を一切排除するという歴史叙述のスタイルは、現在の社会の状況にそぐわないものであると思います。(このことの具体的な話は、また次回以降に。)

ですが、それは私個人の歴史認識の話であり、子どもたちどの歴史叙述を歴史認識として獲得するかは子どもに委ねられるべきであると基本的には考えています。

ですから、ひとつの「ストーリー」としては認める、そのような前提に立たないと、議論が進んでいかないと思うのです。


ということで、本日の結論を。

①について…「つくる会」の「歴史叙述」は、ひとつの「ストーリー」として認めるべきである。だが、現在の社会の状況に対応した「歴史叙述」にはなりえていない。

②についての作業仮説…むしろ問題は、彼らの「歴史叙述」伝達の方法、ないし「歴史叙述」を作り上げる過程、にあるのではないか。

次回は②について検討していきたいと思います。