私は、もっともっと歴史教育が取り沙汰されていいのではないかと思っています。

歴史ほど、人為的に作り上げられ、社会的に大きな影響をもつものはないと思っているからです。

だからこそ、これまでここのブログでいろいろ述べてきたわけです。


ただ、勘違いしてはいけないのは、あくまで教育は子どものためにあるということ。

子どもが社会のなかで最大限に自己実現できることが第一目標です。

子どもが社会とどのようにかかわりをもっていくか、そのためのスキルを養わなければならないというのが、私の考えの前提にあります。

しかしその一方で、子どもの自己実現ということを短期的な目で見たとき、やはり最低限の教養としての歴史教育は捨てきれないものであると思っています。


子どもの目の前に最大の課題として立ち上がるのは、やはり「受験」でしょう。

「受験」が変わらなければいくら学校が変わっても意味がない、という意見もあるほど、「受験」というのは大きな意味を持っています。

(だからこそ、大学をはじめとした学校が「受験」としてどのような学力を求めるのかということが、社会的な責任を負うことをもっともっと自覚しなければならないと思います)

「受験」において、学習指導要領なり教科書なりに記述された「歴史」というのは、子どもが進路を選択するうえで学ばなければいけないもの、最低限の教養であるわけです。

「受験」のためであると同時に、日本で公教育を受けたものに共有されている教養でもあります。

やはり「知らない」ことが「恥ずかしい」ことにつながり、教養はその人の人間性の一部として評価されるという現実を見たとき、最低限の教養というものはやはり必要なのだと思います。

子どもが将来の人生を歩んでいく際、学校を選択する幅を広げる「受験」のための教養、社会に出たときにすでに共有されている「教養」、このふたつの意味で、歴史教育において「最低限の教養」を養う義務があると思います。


この意味での「教養」は、必ずしも学校教育における歴史教育だけに規定されているわけではありません。

学習指導要領が何度変わろうとも、なぜかどこかに維持されている一般常識、先ほど述べた「最低限の教養」は、それほど変わっていないようにも思います。

現行学習指導要領での教科書記述を嘆く声が多いのも、そして最終的な「受験」に必要な教養の範囲がそれほど変わらないのも、厳然としてどこかに誰かが構築した「最低限の教養」「一般常識」としての歴史像があるような気がするのです。

これはおそらく、塾産業において再生産されてきた側面が大きいのではないかと思っています。

(そういった意味では、教育学はもっと塾産業を研究対象に据えなければいけないと思います)


また、もっと違った意味では、「三国志」「信長の野望」に代表されるような、ロマンとしての歴史というのも存在します。

歴史小説や歴史を題材にしたマンガは、近年の多チャンネル化もあってか、増加傾向にあるような気がします。

これはこれで、ひとつの立派な歴史像であり、決して低俗なものではありません。

学校で教えられる「最低限の教養」としての歴史像に対置される、ひとつの歴史像でもあると思うのです。


このような、歴史像の「多チャンネル化」が起こっている現在、学校教育で養わなければならないのは、こういった様々なイデオロギーに染められた「歴史」に対して、どのように接し考えてゆけばよいのかという、そういう意味でのスキルなのではないかと思っています。

(そのスキルのなかで重要な意味をもつのが、「国家」を中心に据えた歴史像であると思っているのです)


結論。

中学校の歴史教育においては、以下の2点を学ばせなければならない。

(1)「最低限の教養」「一般常識」としての「歴史」を認識すること(知識・理解/目に見える学力)

(2)「歴史」に接していくための基本的な考え方、スキルを獲得すること(思考・判断や技能・表現/目に見えない学力)


したがって、教科教育学としての社会科教育学においては、

(1)「最低限の教養」「一般常識」としての「歴史」の内実を明らかにすること。その教授の内容や方法について検討すること。

(2)「歴史」に接していくための基本的な考え方、スキルとしてどのようなものが考えられるのか、これまでの先行研究を踏まえながら構造的に、また臨床的に明らかにしていくこと。

が必要であると思っています。


ずいぶんおおざっぱな話ではありますが、ひとまず自分の方向性を示すメモとして残させてください。