ご無沙汰になってしまいましたが、「歴史と国家」シリーズです。
今日は、ある特定の文化を「よいもの」として教授することの問題点についてです。
…といっても、このことについては以前の記事でもけっこう触れているので、簡単に。
要は、国家のなかの多様性を前提とするならば、なにか特定の立場に肩入れすることによって、その立場にいない人を抑圧してしまう、ということです。
日本において、「日本的な文化」がどんなものであるのか、それを紹介することは必要だと思います。
日本列島で生活している以上、どんな立場に立っているのであれ、知っておいたことがいいことがあからです。
しかし、それを「よいもの」かどうかを判断するのは子どもにゆだねればよいと思います。
「教師」が「よいもの」だと思って紹介すればそれが自然に伝わってしまうということはあるとは思いますが、そういった価値判断からは「教師」はできるだけ自由でなければならない、そう思うのです。
もちろん、教師が価値判断を示さなければならない場面はあります。
道徳や倫理として間違っていることは間違っていると言わなければなりません。
あるいは討論の授業があったとして、もし「教師」としてではなく「個人」としての見解を求められたならば、価値判断を示すことも大切でしょう。
しかし、「教師」が価値判断を示すことが、子どもの生き方を否定することになってはいけないと思うのです。
それは、以前に「文化」を国家のみに帰属させることの危険をお話したとおりです。
「教師」が「これはあくまで自分の意見だけど、日本の文化は素晴らしいんだ!」と語るならばまだいいと思いますが、たいてい授業で「日本の文化の素晴らしさ」を語るときは授業全体のストーリーとしてその主張を体現してしまうのが現実だと思います。
子どもが「そんなに素晴らしくもなくない?」と思える余地を授業のなかで保障しておくことが大切なのではないでしょうか。
もちろん、「教師」が「日本語の表現ってのはすばらしいんだよ!」と語ったとして、子どもがそれをそのまま受容するわけではありません。
子どもは子どもなりの世界を持っていて、学校以外からも様々な情報を得、価値観を形成しています。
ですから、「教師」が「教師」として価値観を提示することを危惧しすぎなのかもしれません。
高度情報化社会といわれる状況のなか、子どもに学校で何を学ばせればよいのか。
そう考えたとき、学ばせるべきは、ある一定の価値観に基づいた「道徳」ではなく、複数の立場に身を置いて「他者」の立場に立って考えることのできるような、そういう見方を獲得することだと思います。
仮に「日本の文化は素晴らしいんだ!」と教授したとして、それをそのまま受け止めるという思考方法は、容易にある一定の価値観に偏っていってしまうということになります。
何事に対しても、「ちょっと待てよ?」とダウトをかけ、違う立場の存在を確認する、そのような姿勢が、現在の社会においては求められているように思います。
monoyaomouさんがおっしゃるとおり、「教師」は「権威」であり「権力」です。
今回の記事で意識的にカッコ付きの「教師」を使ってきたのは、実はそういう含意があります。
monoyaomouさんが例に出されているように、例えば日本のよさもいいつつ他の文化のよさもいう、そのようにある価値観を相対化することが保障されているならば、「日本的な文化」のよさを主張するのもいいのかもしれません。
しかしそれは単純にやり方の問題だと片付けられる問題ではなく、常に相対化の可能性、ある一定の見方にならない可能性を保障するという、複数化の思考こそを大事にしなければならないと思います。
あるいは、第三者に「日本的な文化」のよさを語らせるならよいのかな、とも思います。
権力者としての「教師」が「よさ」を語ってしまったら逃げ道がありませんが、第三者が「よさ」を語る分には、彼には「権威」や「権力」はありませんから、批判的に見ることも可能なのではないかと思うのです。
そういった存在としてゲストティーチャーを活用していくこともありなのかな、と思います。