第38話 慰めて | 五円玉一つのがむしゃら人生

第38話 慰めて

或る日のおひる頃、私は菱川さんを待っていた。


あのひとが、お昼食に帰ってきたら、とにかく話しかけてみよう・・・


とにかくあのひとに、一度私の心をぶっつけてみよう。



思惑を忘れて、この、もやもやと宙にさ迷っている私の心を、とにかくあのひとの意識の中に映じてみよう。


冒険である。


羞しいことである。



でも私は、何かに摑まらなければ、闇の海に溺れてしまう・・・


私は勝手にひとり相撲をしてきて、相撲の相手を、大胆にも土俵に誘おうとしていた。
おひる近くになると、私は玄関先の庭の方ばにばかり神経をとがらせた。


勤め人の多いこのアパートの昼間は、人っ気もなく、しいんとしている。私は入口の戸をあけっぱなしにして、立ってみたり、坐ってみたりした。


眞樹子のお相手にも気が入らない



そして、あれ以来燃え続けた私の胸は、今はただ重苦しいばかりだった。



---こんなに胸苦しい思いで私は待っているけれど、あのひとは、今日も帰ってくるだろうか。


もしかしてきょうはお昼食に帰ってこないのではないだろうか・・・



今日、このときこそが、私の心のヤマのような気持ちで待っているのだけれど・・・



・・・



・・・・



自転車の音が近づいてきた。



重苦しい私の胸は、はりさけそうに動悸を打った。



私は言葉をかける勇気があるだろうか・・・・



あのひとは、庭に自転車を無造作に止めて、玄関から入ってきた。



ああ、どうしよう・・・



あのひとは板の間に上がって、廊下の方へ歩き始めた。



歩いてゆく・・・



----あたりに、人影はない!



「菱川さん」



私は入口の影から声をかけた。


菱川さんは、窓のところで立ち止まって振り向いた。



「ちょっと・・・」



私は、そっと呼んだ。



(こちらへ来て)



という呼び方をした。



なんだから、自分ながら、呼び込むような、いやあな気がした。



でも私は勇気を奮った。



私の呼び方を異様に感じたのか、菱川さんは黙って、私の部屋の前まで来た。



私は少し部屋の中で後退りして、眼で



(中へ入って)



といった。



入口の戸を閉めるほどの勇気はない。


私は自分の心が羞しいので戸が閉められない



私はへたへたと坐り込んで、菱川さんのズボンの脚にしがみついた。



「菱川さん、私、淋しい。とっても淋しいの!お願い。慰めて!」



私は一気にそう言って、力いっぱい、あのひとの脚を抱きしめた。



あの人の脚は、びくとも動かなかった。




そしてあのひとは、なんにも言わなかった。



あのひとがしっかりと力を入れてふんばって立っているのがよくわかった。




うつむいている私に、あのひとが悲壮な表情をして立っているだろうことが、その脚から感じられた。




「お願い!!慰めて!!」




拒もうとしないあのひとに、私の心は、せきを切って流れた。






「うん」




あのひとはちいさく、けれども、しっかりと頷いてくれた。





「じゃあ、また、あとでね」





あのひとはそういうと、二階の自分の部屋に帰って行った。