☆☆☆☆★
2022年公開。
現在絶賛公開中(笑
劇場で見てきました。
面白かったです。1回見ただけでは理解できない点もあり、腑に落ちない点もあるので☆は一つ減らしました。上映時間が限られているので全てを克明に説明・描写することはできないんだろうけど、もうちょっと丁寧な描き方をしても良いんじゃないかな、という点はあります。それほどセンシティブな題材でもあるわけだし。
気になったのは「卵が先か鶏が先か」的と言うかメビウスの輪的と言うか、幼少のすずめと現在のすずめの関係性です。タイムパラドックス系の作品ではいつも疑問に思う永遠のテーマ。幼少の自分の記憶に登場したのは未来の自分で、幼少の自分に託されたアイテムは未来の自分から受け取ったもので、だったら起点ってどこなの?本作の場合はアイテムは椅子なんだけど、災害で失われたはずの椅子を幼少の自分に渡したのは未来の自分で、その椅子を所有し続けたことで成長した自分が幼少の自分に椅子を渡すことができた、ではもともと「失われたはずの椅子」はどこから出現したのか?これを考えると本当に思考が迷宮に入り込みます。まぁ単純に考えればそんなに大袈裟なことではないのかもしれないけど。同様に、幼少の自分が高校生になった自分と、大学生の草太に会ったからこそ、高校生になった自分が草太を見かけた時にときめいたんだろうし。時系列の検証をしていたら、間違いなくどこかで破綻するよなぁ。まぁ、そういう物語ではないので考えすぎる必要はないんだろうけど。
好奇心から「常世」とつながる「後ろ戸」を開けてしまったどころか、後ろ戸を守護する要石を知らぬ事とは言え抜いてしまったすずめのせいで、日本各地に災厄の危機が迫る事になったんじゃないのか、とも言える。なのですずめが苦労しながら日本各地の後ろ戸を締めて回るのは、まぁ自業自得?なのだが、それを責めない草太が良い人過ぎる、しかも椅子に姿を変えられたというのに。すずめはもうちょっと責任を感じた方が良いんじゃないのか?(笑
要石が姿を変えた猫を追って、東京まで辿り着くロードムービー風のファンタジーと思って見ていました。様々な映画でも東京には巨大な災厄が封印されているというテーマで描かれているし、それもアリかと思いました。東京で猫=ダイジン(SNSでプチバズリしてそう呼ばれるようになった)を要石に戻し、草太は人間の姿に戻れるものかと思ったのですが、さらに斜め上を行く展開でした。草太は要石となって東京を守り、すずめは草太を救うために故郷である東北を目指す展開に。これがすずめの過去の体験と関係してくるのでした。東京までの道すがら、東京から東北まで、行きがかり上たくさんの人に助けられて旅を続けます。出会った人達、みんな良い人ばっかり。だからこそすずめの「この土地に生きる人達」を救いたいという強い気持ち、かつてここに生きた人達に思いをはせる事ができて、「後ろ戸」を閉める事ができたのでしょうけれど。
そもそも「後ろ戸」は廃墟に存在するという設定。その廃墟は。確かにそこに人の営みがあったにもかかわらず自然災害によって破壊され、うち捨てられた場所です。東日本大震災をはじめとして、近年各地で起こった大規模自然災害がモチーフになっています。劇中で明言されていませんが、町の風景や時系列を考慮しても、東日本大震災を強く意識した作品なのではないかと思います。ここで東日本大震災への個人的な想いを語ると長くなるので割愛しますが、今まで作られた震災をモチーフにした作品とは違ったアプローチで、こういう描かれ方もあるのかと感心しました。
すずめが引っこ抜くことで猫に姿を変えた「ダイジン」は元々は神様だそうです。演出と草太のセリフから、すずめも私もダイジンが後ろ戸を開けて回っているのかと思ったのですが、終盤になってダイジンが後ろ戸を開けていたのではなく、ダイジンは後ろ戸が開きそうな場所にすずめと草太を導いていたのではないか、という説が浮上しました。「神は気まぐれだ、善も悪もない」なんて草太が言ってたし、草太は椅子に姿を変えられるし、要石に戻れという説得にも「それは無理」と聞き耳持たず逃げ出していましたからね。一方で草太が東京で要石になった後にサダイジンという大きな黒猫が登場します。もう一つの要石だそうですが、どこから現れたのかは詳述されません。このサダイジンは何故かすずめを追ってきた叔母に取り憑き、心の奥底に封じ込めていたはずのネガティブな感情を引き出し、すずめにぶつけさせます。そんな事もあってダイジンもサダイジンも邪悪な神という印象を強く持つようになったのですが。最終的に、要石になった草太を救い出し、代わりにダイジンが要石に戻るのですが、ダイジンも草太も「災厄」から現世を守るという役目には変わりがなく、だからダイジンにとって草太は対等の関係、自分の代わりに要石になるのも厭わない存在と思っていたのかもしれません。そこは生に執着する人間と、それを超越した神との価値観や死生観の違いでしょう。神の方がはるかに思考はシンプルで、だから無邪気にすずめに災厄を封じ込める手助けをした自分の事を誉めてくれる、好きで居てくれる、と考えたのでしょう。しかしすずめにとっては、大切な草太を要石にしてしまったのはダイジン、という想いからダイジンを拒絶します。そこで初めてダイジンは人間の「想い」というものを知ったのかもしれません。
長くなりましたが最後に疑問点を。要石は二つあり、それによって日本に眠る災厄を封じ込めていたそうですが、宮崎にあった一つをすずめが抜いてしまった事で後ろ戸から災厄が漏れ出てしまいました。二つ目は東京にあったのですが、この二つ目はなぜ抜けてしまったのか?単純にバランスが崩れたことで誰が抜いたわけでもなく災厄の力に押し負けて抜けてしまったのか?草太が要石となり封印したのは東京だったとして、最終的にダイジンは東京の要石になったと解釈するなら、もう一つの封印はどうなるのか?サダイジンが要石となってどこかの地を守護する描写はなかったのだが、そこはそういう事になっていると解釈していいのか?
それにしても新海誠監督作品は「きみの名は。」より前の作品の気持ち悪さからは雲泥の差で本当に驚きます。「きみの名は。」以降の傑作を生み出すための土壌だったと思うしかないのでしょうかね(笑