司馬遼太郎の小説「尻くらえ孫一」や歴史ゲ-ムなどに登場し、高い人気を博しているにもかかわらず、その実像は謎に包まれている。
なぜなら、雑賀孫一と名乗る人物が残した記録が、同時期に複数存在したからである。
中でも一番有名なのは、前述した織田信長と争った記録。
石山合戦の時、本願寺に入り、鉄砲隊を率いて活躍したのは、本願寺の主力武将・下間頼廉(シモツマライレン)に宛てた起訴文から”鈴木孫一重秀”という名の武将だったことがわかっている。
鈴木重秀という名は、雑賀衆の頭目を務める鈴木家の武将として史実に残されており、雑賀孫一と結び付けるには、一番信憑性が高い人物である。
だが、鈴木重秀を雑賀孫一とするには問題点もある。
石山合戦以降の記録が、極端に少ないのである。
そして、雑賀孫一の名は石山合戦以降も随所に見られるのである。
そこから浮かび上がるのが、雑賀孫一は複数人いたという説である。
雑賀衆の頭領は代々、鈴木家が務めてきた。
最初の頭領は鈴木重意(シゲオキ)だが、実はこの重意も雑賀孫一と呼ばれていたのだ。
他な雑賀孫一と呼ばれる人物も、ほとんどが鈴木家。
つまり、雑賀孫一という名は、雑賀衆の頭領が代々、名乗ってきた通り名だったのである。
終わりに、懐かしのアイドル画像でお楽しみください煜
