そんな銭屋が請け負っていた河北潟の埋め立て工事で、死魚が発生し、それを食べた住人が中毒死する事件が起きると、加賀藩は「銭屋が毒を流した」として一族を捕縛。
五兵衛は獄死し、息子も磔刑に処された。
実は、銭屋は加賀藩の家老と結託し、鎖国政策に反してロシアなどと密貿易を行い、巨利を得ていた。
しかし、幕府の密貿易摘発が厳しくなると、発覚を恐れた加賀藩は、手のひらを返すように密貿易の罪を銭屋に被せることにしたのだ。
また、銭屋から没収した莫大な財産は、窮迫していた藩財政の立て直しに使われたとされる。
写真は、銭屋五兵衛。
