1864(元治元)年から翌年にかけて、京都で「長州おはぎ」(盆の上に、箸とおはぎ3つを、毛利家の家紋である「一字三星」の形に並べたもの。長州藩の城下町「萩」ともかけてある)が爆発的に売れる現象が起きたのをはじめ、禁門の変で敗走し尼崎で自害した長州藩士・山本文之助の墓への群参(「残念さん」参り)、禁門の変のあと取り壊された長州藩・大阪蔵屋敷跡の柳の木(無念柳)への群参などが行われ、播州(兵庫県)などでは「長州カチジャ(勝ちじゃ)カチジャ」と囃しての「長勝躍り」が流行し、躍りに着用する長州産の縮木綿などが京都・大阪の呉服屋で品薄になったという。