単行本派でして。長い休載を経て連載中のハンターハンター最新話を、ネットで考察動画とかみてフォローしていたのですが我慢できなくなり、とうとう人生初めてジャンプを買ってしまいました。
いい歳して恥ずかしくて、コンビニのセルフレジで😅

旅団、クラピカ、蟻編のゴン、みな動機付けが愛する者を奪われたことへの復讐なんですね。日本人は復讐ストーリーが好きですよね、忠臣蔵とか。愛するものの命の贖いのためなら、自分を含むその他の命は消えてよい、という生命倫理。


そこが他者を赦せ、あなたは高価で尊い、復讐するは我(神)にあり、とするキリスト教世界観との違いなんだけど、だからクロロは(作者に)逆十字を背負わされているのでしょうか?初登場時のツェリが”西洋画に於けるイエス”っぽい造形だとも言われてますね。アンチキリストスーパースター、クロロ。対するであろうツェリは、よく分かりませんが、アンチキリスト国家日本の、一神教の神観の反映?なのかな。


ちなみに、キリスト教死生観に基づく復讐者がどうするかは、神の小屋って映画や小説によく描かれてます。


冨樫先生がどの程度モチーフとして聖書を読み込んでるのか、気になるところです。それとも、神学の本でしょうか。日本人は、アンチテーゼとしてのニーチェは読むけどテーゼである聖書そのものは読まない。幽白の最後?後日譚?として、作品全てが劇中劇だったというのもあるみたいですし、冨樫先生は、この世界が誰かの創作物だったらどうする?という問いをずっと読者に発してる気がするんですが、そのへん皆さんいかがなんでしょう?

そして、冨樫先生ご本人はどう考えてらっしゃるのかな。もしかして、クロロもサラサも復讐なんて望んでないのに旅団員の期待に応えて復讐をせざるを得ないように、冨樫先生も復讐なんて望んでいないのに、読者の期待に応えて復讐譚を描かざるを得ない、ってことなのかな。それなら、人間の悪意を描いた蟻編の続きということで、納得。つまりサラサを殺したのは、より残酷な描写、より強い刺激を飽くなく求め続ける我々読者であるという皮肉なのかなと。



キリスト教世界観では、死後の世界があり、この世では人は皆寄留者(役割を演じている)なんだと説きます。
これはクロロが団長を演じていることとマッチするし、死後の世界を信じているっぽい発言、センリツが聴いたクロロの心音とも整合性があります。

でも、クロロは復讐をする。一義的には団員がそれを望んだから、なのですが。創造主がいても、指針となる聖書がない、救い主であるイエスがいない世界、だからなのか。創造主である冨樫先生が、復讐者として設定したから、なのか。これはもう神学的には予定論とかややこしい話になっちゃう?勉強不足でよく分かりません。

ハンター世界を創作した冨樫先生が、幻影旅団を創作したクロロに同情や感情移入(創作の苦しみ)するのはなんか分かる気がします。神が作ったこの世にいる冨樫先生が作ったハンター世界にいるクロロが作った旅団、という入れ子構造になってるわけですよね。

メタ的には、クロロは、いっこ上の次元において、インターネットミームとしてかなり長い命を手に入れたと言ってもよくないですか?紙の本でも何万部?何百万部?も出ているだろうし。うーんでも、となると、私の得た救いってなんなんだろう。よくわからなくなってきますが。ひたすら、み旨のままに。


ハンター世界には聖書がないし、イエスもいない。=キャラの中の誰も、冨樫先生の存在に気付いていない。(キリスト教をハンター世界で例えると、ハンター世界に冨樫先生を崇める宗教があってさらに一番人口が多いっていう、読者ならドン引きの設定😅聖書に、神の名をみだりに口にしてはならないってのがあるけど、そう考えるとそれはそうかもね。)

神の愛、アガペの愛と、人間の愛の対比という意味でも、日本人の死生観を探る意味でも、ハンターそのもの、その人気や考察もとても面白いです。


そうそう、最近熱海に行きまして。MOA美術館の創始者、岡田茂吉氏の考えに触れました。”美をもって人心を陶冶(とうや)せん”とした、氏の素晴らしい業績に、感嘆させられました。

私は、美しいものが好きですし、人は誰しもそうだと思います。氏が美と、人心の平安を追い求めた結果、晩年新宗教の祖になるというのは、限りある、神あらざる人が、完全なるもの、美しいもの、永遠を希求した一つの帰着だと思う。


人は、神を求めている。パスカルの言う神の形をした空洞に気づかないふりをしながら生きることは、非常な苦しみを産む。


例えば私は40過ぎてからスキンケアやボディメイクに励んでいますが、それが自己目的化したら非常な苦しみを伴っただろうなと想像してます。神の創作物、作品である私の肉体の管理を任されているのだから、神を讃えるためにやっている、というエクスキューズがないと、私は何もできなかったんですよね。たとえばお化粧にしたって、自分を飾るため、醜い自分を隠すため、だとしたら、外面だけを取り繕おうとする自分をみっともなく感じてしまって、できない。実際、やってなかった。

なにもしないのであれば、鏡の中の己の姿に内心辟易しながら日々を過ごしていたでしょうし、神抜きに美を追い求めれば、際限がなくてやはり非常に苦しんだであろうと思います。拒食症や、整形依存症など、美を追い求める行為の側にも落とし穴はあるわけで。神抜きには、全てが虚しい。もちろん、美しい自分でいる方が快い、という動機もあるでしょうが、快か不快かが行動原理の全てというのは動物となんら変わらないわけで。人間には自らの行為に何らかの目的意識、意味付けというのを求めてしまうもんなんじゃないでしょうかね。

エゴとは本当に、獅子身中の虫といいますか、己を滅ぼすものですよね。傲慢なのも、卑屈なのも、どちらもエゴ、人間中心主義に拠るものなわけですから。


まぁ、そんな徒然でした。とりとめもなく。