徳川家康が江戸の町を発展させるために三河から職人達を呼んできたころ、

人材を確保するためにも、街の建設と共に歓楽街も発展させたそうです。

 

 元は武士の何某とゆう人が、『恐れながら』と申し立て、遊郭の建設を願い出、葦の茂った野原に大きな囲いを設け、

その中に花街を設けたのが、『吉原』の始まりだったそうです。

 その名残は、やはり完全に失われてしまい、囲いの中の街並みの面影を残すようなものはすっかりと有りませんが、

かつては『鉄漿どぶ』とゆう堀に、背の高い塀に囲まれた『一つの町』が確かに存在していました。

 

 

 明治二年の札幌開拓が一度頓挫し、明治三年に再び新しい開拓使が任官してから、再び札幌の開拓が進んでゆきます。

再び、東京から腕の良い大工を30人ばかり呼び、彼らがこの北限の地に留まってくれるよう『花街』、『色街』と、歓楽街を整備する必要もありました。

 

 おそらく、函館、小樽にはそういったものが出来て久しかったのでしょうが、札幌と小樽を行き来するには、当時はあまりにも遠い道のりです。

 

 そのような理由から、一説では東京から130人の女性を連れて、本格的な遊郭『東京楼』が開設されました。

徳川家康の街造りに倣って、札幌の街に『現代版吉原』を建設したのでしょう。

この場所が、現在のススキの一角にあたります。(現在、その場所が何処に当たるのか調査中です)

 

 

 この『東京楼』ですが、少し面白い話を聞きましたので記してみようと思います。

 

個人経営者が、申し願い出て『東京楼』の建設は始まったのですが、これが本当に個人での事業なのか、それとも『開拓使』とゆう国家予算で始まったのかが定かでなく、当時から疑問の一つだったようです。

それは、敷居が大変に高く、高級な一部の人達しか縁が無かった場所だったのかも知れません。

 

 そもそも、その東京楼を開いた人物が、どのような経緯で沢山の花魁を連れてきたのか、北前船などで分乗して、函館と小樽を経由してきたものと思われるのですが、私が思うに全てが東京から連れてきた女性では無かったと思います。

移動しながら、通った町や村で、女性を集めながらの移動であっただろう事は想像に難くないでしょう。

また、開拓と同時に『博徒の一家』も流れてきました。

 

 東京楼での上げ代は、一説によると2円にもなるそうなので、いくら職人が高給だったかも知れませんが、一般人が利用できるような場所で無かったような気もします。

二円とゆう金額は、恐らく心象的に言えば、給料の半分位にあたると思います。(物価の観念が違うので、一概当て嵌める事が出来ないが、50銭と言えば小躍りする位の価値だったようです)

 

 政府関係者、高級官僚の為だけの、開拓使費用を横流ししての施設だったのではなかったのだろうかと、私は思っています。

ですから、そこの近くの現在の『狸小路』が、庶民の繁華街として大きく栄えたのではなかろうかと推察しています。

 

 この、『北海道最大の遊郭』東京楼ですが、大変に短命で、明治四年に開業して明治九年には廃業してしまいました。

 

また明治6年には、遊郭街を塀で囲み一か所に集めていましたので、それにともない東京楼は、過酷な競争に負けてしまったのかも知れませんし、女性達も、待遇の良い別な楼閣に移動してしまったのかもしれません。

 

 いずれにしても、国家の肝煎りで設立された遊郭も、時代の変化による一般市民の台頭には購えず、その席を譲る事になったのだろうと思います。

武家上がりの閣僚たちの想像より、はるかに一般市民の方が柔軟に、『文明開化』に順応していったのでしょう。

閣僚達の頭を叩いても、古臭い幕藩体制の音しか響かず、

庶民の散切り頭こそ、新しい時代を告げる『文明開化の鐘の音』だったのでしょうね。

 

 

 さて、明治初期の頃は、どんな料理が振る舞われ、どこの酒造の酒が主流だったのでしょう。

小樽には鰊御殿で有名な青山家がありますから、酒は新潟の酒か、新潟杜氏による道内での酒造だったのかもしれません。

 

 料理はどうだったのでしょう。

まさかジビエではあるまいし、夏は山に自生する山菜や、やはり魚料理が一般的だったのかもしれません。

 

ですが、明治中頃から花開く割烹料亭。

北日本最大と言われた料亭『いく乃』、『山形屋』、『東京庵』と、食文化も花開いてきます。

北で栽培されるようになった野菜。石狩湾辺りで摂れる魚、もはや酪農も始まり安定した供給ができるような街になっていたと思われます。

 

 京都からの調理人がかなり流入していたようですから、

それら道産素材を使った、『京御膳』のような料理であったのだろうと思っています。

 

 北国に於いては、その気候風土からどうしても味が濃い目になり、家庭では醤油色の煮つけ物が一般でした。

今はかなり素材の色を残す様に調理されますが、私が子供の頃に見かけた北海道の料理は、全てが醤油色の煮物で、塩鮭などもザラザラと塩を噛んでいるような歯触りの『新巻鮭』が当たり前でした。