『開拓』とゆう言葉を想う時、それは荒涼として果てしなく広がる大地や、

何故かアメリカ西部のフロンティア時代の情景を思い描いてしまう。

 

 私の年齢的な事もあるのだが、ゲイリー・クーパーやジョン・ウェインの映画で見る様な、フィクションの人間模様や、そうゆう生活を日本に置き換えた世界を想像してしまう。

『北の零年』とゆう映画にも見る様な、廃藩から『逆賊』として開拓に送り込まれる旧藩士の生活や、心身ともに疲弊しきってしまうような、悲しい人間模様が有ったに違いない。

 

 アメリカの開拓による、白人とインディアンとの確執は、アイヌと和人の確執にも似ていて、和人に虐げられるアイヌ人や、やがてアイヌ人の蜂起で戦いが繰り広げられるような情景へと、刷り込みが行われてしまっているような気がする。

 

 だが日本人には、アメリカの一部の白人が楽しんだ『ハンティング』と称して、土着民族を娯楽の為に殺戮するような記録は残っていない。

日本人は、そういった無意味で無慈悲な行いをしない民族だと、私は思っている。

その根底には仏法があるからだと、私は強く信じて止まない。

 

 最近の歴史研究が進んで、鎌倉以前に見る様な武士の有様は、狂ったように誰彼を躊躇する事なく、欲望の為に無関係な村民を襲ったような事もあったと言われるが、私はそうゆうのは本当に極一部の、『神仏の罰』も意識する事もない人間の所業であったであろうと思う。

 

 かつて、蝦夷地と呼ばれた旧北海道でも、『シャクシャインの戦い』のような、組織的がアイヌ人と和人(松前藩)との衝突はあった。それは勝者によって都合よく書き換えられている箇所が多い。

少しばかりの勘違いと、不信感から起こったこの蜂起は、和人がアイヌ民族たちに常習的に行っていた『理不尽な交易』が根底にあり、そうゆう事を十分に我々人類は知っているのにもかかわらず、同じ事を現代でも繰り返している。

相手より優位に立とうと、どうしても、欲とゆう泥沼から抜け出す事の出来ない人間の悲しい性なのかもしれない。

 

 近代や現代の事を持ち出してしまい誠に済まなく思うのだが、

日本による満豪開拓の歴史も中国の馬賊や抗日勢力との戦いが起こっている。

日清戦争の賠償とも言える『北京条約』に乗っ取っての入植でもあったが、後に勝者側の都合の良い塗り替えが行われている。

勿論、日本も戦勝の時には中国人民に対して都合の良い刷り込みを行っている。

 

 ウクライナとロシア。

この事も、後の世界にはそれぞれの勝者や『教義上の正義』によって、刷り込みが行われて行くのだろう。

充分に検証もして、過去の過ちを繰り返さないように努めている一方、人間たちは少しでも自国が優位に立てるようしか、考えつかないのかもしれない。

 

 過去の歴史上の失敗は、『同じ煮え湯を飲まされないよう』にとの部分でしか参考にせず、人類の悲しみを防ぐ方向へ歩調を合わせるのは、まだ難しいのかもしれない。

 

 

 

 慶応二年(1866年)、石狩平野に幕府直営の農場設置に大友亀太郎が12人を伴って伏篭川(伏古川)沿いに村を開いたのが、初めての開拓であったと私は思っているのだが、恐らく間違ってはいないだろう。

 

 だがしかし、これは幕府の事業であって、この数年後に政局は明治政府に変わり、

全てを明治政府の偉業に書き換える為に、幕府の功績を歴史から削除をしたのは、想像に難く無い。

 

 函館戦争を経て、再びサッポロ開拓に動き出した明治政府だが、

サッポロを詳しくしる人物が、元は幕府の任官であったためにそれを感情的に嫌い再び開拓を頓挫させた。

 

 そういった幕府時代の人材を排除したうえで、新しく明治政府の任官を制定するまで開拓使事業は停滞し、

その間に入植に入った人達は離散してしまったのが事実だろう。

 

 同じ明治政府の機関で有る筈なのに、兵部省の協力が得られず開拓使の事業は進まなかったのも理由の一つだ。

多分、その裏側には様々な人間模様もあったのだと思う。

 

 

 実際、明治政府の官僚が幕藩時代末期に繰り広げていたのは、現代で言えばテロ活動であり、思いの他その活動が上手く行ったと思われる箇所も多々ある。

 当然、諸外国の協力があっての国内戦争に発展したわけだが、知らない間に西洋人のお膳立てに乗せられてしまってたとゆう事実も拒むことは出来ない。

アメリカでは西南戦争も終わった直後で、旧式となった銃器が大変に余っている頃で、討幕派にとっても非常に良いタイミングであった。

そのような事情もあり、突如として走り出してしまった明治国家は、明治元年頃には『何をして良いのか分らず』急遽アメリカ視察に出かける具合だった。

 

 その留守中に留守を任されていた西郷隆盛らが、政策を打ち立て視察組とは意図が異なる国造りへと行動し始めていたので、これを急遽罷免したとゆうのが事実だろうと思う。

 

 都会から離れた寒村では、未だに文銭が当たり前のように流通し、明治九年にハッキリと廃刀令が発布されるまで、徳川時代と変わらない生活が続いていた。

 少し脱線するが、見切り発車の明治政府は、早合点から『赤報隊事件』のような、後で言われる『偽官軍事件』まで引き起こし、その口封じを行っている。

 

 

 話は脱線してしまったが、どうしても当時の世相を知ってもらうためには必要だと思い書き記してみたが、

 明治三年になり、ようやくサッポロの開拓使は再び動き始めるのである。

 

この『サッポロ』とゆう地名は、どうやら現在私達が今知っている場所とは違い、支流の流れる狭い場所を指していたようである。

これが、『サッポロ村』と始まりとなった。

 

 

 

(途中原稿のため、後に改修を繰り返しています。資料を調べたいのですが冬季であるため行動がままならず、今年の暖冬は急激な落雪等の為に我が家屋の一部が損壊し、ネット環境も不通(テレビを含め)になってしまいました。現在ようやく復旧したばかりの状況故、乱筆乱文、校正不備をご容赦願いたく思います。)