勝つ環境に触れて
~今の苦悩は 未来の糧になる~
1991年沖縄水産高校のエースとして甲子園で決勝までの6試合、全試合をたった一人で773球を投げぬいた。(沖縄予選をいれると計1266球)
それも予選の段階で肘の疲労骨折があったという。
甲子園後の検査では、疲労骨折・裂離骨折・靭帯損傷・遊離軟骨
が判明。・・・投手生命は絶たれた。
この出来事が腰の重い高野連を動かした。
・甲子園大会前の投手の肩肘のメディカルチェック
・投手数の増加のためベンチ入り人数が15人→18人 など
「自分の意志で投げた」
自分の肘を壊してまで投げ、ピッチャーを諦めなければなったことに後悔せず(沖縄の歴史も関係)、その後九州共立大学でバッターとして復活し、1995年ドラフト5位で読売ジャイアンツに入団。
2000本安打まで、あと1995本(大野さんの言葉)のところで戦力外通告。
「今日のお前の見逃し三振は人生の見逃し三振だ!」
試合後に当時の監督に言われ、2軍落ち。以後1軍にあがることはなかった。
壮絶な人生を生きてきたはずなのに、そこに重苦しい雰囲気を感じさせない軽やかさ。
色々な想いを押し殺し、沖縄のどこまでも広がる青空とコバルトブルーの美ら海の爽やかさ。
大野倫さんの魅力。引き込まれました。
野球がうまくなるには、人が「遊んでいる時」「寝ている時」「誰もいない時」に練習すること。
小4から始めた5~10分の毎日の朝練。中学の頃には1時間30分の習慣に。努力して頑張るのではなく、朝顔を洗い歯を磨くように
「習慣」となった。
2010年 中学硬式野球チーム「うるま東ボーイズ」 設立
現監督
2019年 「NPO法人野球未来.Ryukyu」 設立
理事長とし「野球未来プロジェクト~日本で激減する少年野球プレーヤーを増やしたい」 実践中
野球の楽しさを伝えるため、幼稚園や保育園で野球型レクリエーション、小学校では野球型授業を行っている。
<懇親会>
甲子園のルールを変えさせるきっかけとなった右肘
”く”の字に曲がっている。
これ以上伸びない!
これ以上曲がらない!
顔が洗えない!
未来への子供たちの警鐘になれば、と笑顔で応じる大野さん。
申し訳ない気持ちでシャッターを押す。
人としての器の大きさを感じずにはいられない。
壊れなければプロで投手として大活躍したであろうこの右腕
肘の故障のためにプロ野球の夢を諦めた多くの子供達・野球少年。
「子供たちの肘と未来を守るため」
自分にできることをコツコツと!・・・そんな想いを強めた夜でした。
大野倫さんの人生に「カリー!(乾杯)」