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しかし、キリスト教が早々に生成AIを導入したのは、説教というもの(スピーチです)を重視しているからではないかと思うのです。人前でうまくスピーチして信者の心をつかむことが重要とされているから、それならAIの得意とするところである。どのようなデータを入力するかで出力の中身は変わるのでまだ信者を唸らせるほとではないかもしれないが、そのうち人間以上にうまくやるようになるだろうな。
宗教界におけるAI導入については、どんなに素晴らしい立派な説教・法話を聞いても実践がなければ信仰によって幸福を手にすることはできないという指摘、というか批判というか、当たり前すぎる意見がある。当たり前過ぎて拍子抜けかもしれないが、AIについての非常に本質的な考え方であると思う。
どれだけダイエットの本を読もうが読んだだけでは痩せられない…この例はわかりやすい。
AIの説教・法話も同じである。宗教、信仰とは実践である。それが本来の信仰者の姿である。それなのに、人気講師のようにウケる話を信者(聴取)にすることが牧師や神父、坊主の仕事になっていたのだから、それならAIで!というのは当然である。
とすれば、キリスト教以上に形骸化している仏教は寺の坊主を全部AIにしてもなんら差し支えないわけである。
AIに奪われる仕事の筆頭は寺の坊主か…
無駄に大きい立派な寺も、本来は信者たちの信仰の実践の場としてあるべきなのだから、それがないなら解体してもいいわけである。葬式なら葬儀社のホールがあるのだから。
宗教界にAI導入と聞き最初は戸惑ったが、戸惑うのは宗教に何やらスピリチュアルなイメージを持っているからである。
葬式や法事での読経で食っていける職業がなくなるのは嘆かわしいことか?
坊主がいなくても法事や葬式が可能とは大方の人は思わないのだが、実際いなくても困らないし、経済的に助かるということにすぐに気づきます。
以上!