(別ブログより転載)

2年前の朝刊でおもしろいコラムをみつけました。ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘したドイツの考古学者シュリーマンは、1865年、ちょうど江戸時代から明治時代に変わるころ、日本にも来ています。1か月ほど滞在しています。日本の教育が欧州の文明国家以上に行き渡り、識字率が高いことに驚く一方で、そのことが民衆の精神の発達につながっていないことを指摘しているそうです。その理由について、封建体制の抑圧的な傾向をあげています。実際、当時の日本は密告が横行し、それが幕府を支える機能となっていたようで、そのために人々の間には不信感と嘘がはびこっていたようです。


なんだか昔のこととは思えません。

現代社会では民衆自らがお互いに監視しあい、SNSを通して暴露密告干渉などに時間を費やしています。

日本国民の識字率はほぼ100%です。世界的に珍しいことです。教育が行き届いている証拠です。でもその教育は私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。人間性の向上に役立っているでしょうか。文字・言葉を他人への誹謗中傷に使い、足を引っ張り合っているのではないでしょうか。文字・言葉は人間に生きる勇気を与える力にもなれば、社会の人々を混乱に陥れる凶器ともなります。

私たちが能力を向上させるのはなんのためなのか。知能指数を上げるのはなんのためか。他人を蹴落とし、のし上がるためなのか。


追加

近代以前に日本を見た外国人の意見をまとめたものはいろいろありますが、渡辺京二さんの「逝きし世の面影」が、お江戸礼賛本と批判する人は少数ながらいますが、おおむね素晴らしい評価を得ているようです。


江戸の町はエコだったとか、寺子屋の普及で下々まで教育が行き届いていたとか、当時のヨーロッパなどと比べて進んでいたという話はよくでます。アジアは遅れていたとの認識が西欧人に浸透しているので、ちゃんとそういったところに日が当たるのは嬉しいことです。ただ、その教育がどのような目的で行われ、どのような結果となっていたのか(人心掌握、体制維持)、ヨーロッパで興った人間開放がなぜ日本では興らなかったのか、そういうことは言及されていなかったと思います。シュリーマンの視点はいい線いっていると思います。