昭和初期に書かれた教育学の本に正月ごろから取り組んでいる。

取っつきにくく、難解である。

とばしとばししながら、面白そうなところを読んでいる。

教育目的について、痛烈なことがわかりやすい言葉で書かれていた。


気がきいて何事にも役に立つとして世間から重宝がられはするが、さりとてどれという取り柄はない。器用に人真似はするが、独特の長所は持たない。結局どこへでも向くが、何一つ責任を負わせて遣らせる仕事はないという人間と、世間見ずで、自分のことだけは勝手に傍若無人に振る舞うが他人のことは一向に理解しない。結局は一人ぼっちの仲間はずれで暮らす人間ほど厄介なものはない。かような人間に仕立てるならば社会も損であり、本人も幸福ではないから、教育はこんな人間に仕立てたくないというのが、教育目的の消極的の一制限である。


こんな人間に仕立てたくないといいながら、こんな人間ばかり仕立て上がったのはどういうわけか…

自民党のおじいさまやおばあさまがたは、戦後教育のまずさを糾弾し、教育勅語の復古を主張するかもしれないが、昭和5年にすでに痛烈に教育は批判されている。


敗戦後、占領軍になにからなにまで追従していた日本であるが、ドイツは惨敗したくせに、自国民の教育は自国でやると、戦勝国連合国の教育介入は突っぱねたらしい。


日本は、かろうじて英語が公用語にならなかった。なったほうがよかったって、もしかして思ってるひといるかも…

公用語になったといってもいいくらい、英語は日本で商売のたねになってる…