弁護士故中坊公平氏の著書『金ではなく鉄として』を数年ぶりに読み返した。

 

町の小さな図書館のリサイクルコーナー、つまりタダですからどうぞのコーナーにあった本である。

 

タダほど高いものはないと言うが、全くその通りで、世間的にはどうか知らないが、私にとっては一生手放せない良書となっている。

 

中坊氏は、森永ヒ素ミルク事件、豊田商事事件などで有名である。最後は住専でしくじったが、戦後を代表する弁護士と言われている。

 

小さいころから出来が悪く、4人に3人は合格すると言われていた中学に落ち、人目を避けて泣きじゃくりながら帰ってきた中坊氏を、父は布団の中に入れて、いつまでも抱きしめてくれた。

 

子が危機にあるときには、無条件で守ってくれた、絶対的な受容であった、砂糖よりもなお甘かったと中坊氏は言います。

 

しかし、中坊氏の父は本質的に甘かったのではありません。

 

あまりの出来の悪さに、小学校の担任から、両親ともに教員であるなら少しは家で勉強をみてやってはどうかと言われますが、断っています。

 

うちの子は金ではない。勉強でも他の事でも人より劣る。それでも親が勉強を見てやれば、一応の恰好はつくだろう。しかし、それでは金にメッキをするようなもので、メッキはいずれはがれる。当人にとっては悲劇だ。鉄は鉄として、メッキせずにどう生きていけるのか、探させたほうがいい。今は苦しいかもしれないが、自分はしょせん鉄なんだと身に染みてわからせたほうがいい。

 

このように担任教師の忠告をはねつけたのです。

 

子の危機に、無条件で、絶対的な受容でもって子を守ることも、子の本質を知ることも、親にとっては至難のことである。

 

中坊氏は自分のみじめさをわかっていました。ボンボン育ちのせいで直視せずに済んだだけで、本当は自分はみじめなみすぼらしい人間であると自覚していました。

 

そんな自分をとことん守ってくれた親に感謝しつつも、親にできるのはそこまでであって、どのように進んでよいかを示すことは親にはできないし、すべきでもなく、できると考えるのも誤りであると、中坊氏は言います。

 

おんぶ抱っこと甘えながらも、ママ来なくていいよ、しなくていいよと言って、自分で歩み始めている娘を思い、親がすべきこと、決してできないことに思いをめぐらせました。

 

しかし、金ではない子を絶対的に受容する、そのような器を持ち合わせていない、それが多くの親ではないか。小さな狭い器を広げていくにはどうしたらよいのか。小さな器しか持ち合わせていない親ならば、子は誰も安心して生きることができない。持って生まれた器は絶対なのか。否。そんなはずはない。

 


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