昨日は保育園からの帰宅後に、
6歳の長女を町の公民館へと連れて行きまして、
そこで開催されている工作教室に参加してきました。
普段なかなか家ではできない絵筆を使った
お絵かきを楽しんでいました。
長女には他に、習い事として
プールとピアノに行かせています。
私自身は幼少期に特段習い事などをしなかったため、
本音を言えば
「なぜ習い事をさせるのか」
という問いに、自分なりの考えはありませんでした。
ただ、妻が習い事の選定から手配まで
一切合切をやってくれましたし、
自分が経験していないことを
経験させてあげられるのは良いことだ、
という単純な理由から妻の熱意に
ただ乗りしただけでした。
しかし、いざやってみると、
習い事の上達以外にも、
子どもにとって重要な経験だな、
と思う点を二つ見つけました。
一つには、人前で何かしらの成果を発表する、
というプレッシャーに耐性がつくことです。
ピアノであればほんの一小節を
数人の前で発表する程度のことですが、
それでも、きちんと礼をし、姿勢を正して、
演奏し、また礼をして席に戻る、という一連の動作を、
複数人の視線を浴びている状態でつつがなくこなす、
という小さな経験の積み重ねは、
いつか迎えるかもしれない大舞台で
実力を十二分に発揮する時のための
大切な下ごしらえだなと思うのです。
例えば私の苦い思い出ですと、
中学校3年の時に生徒会役員に立候補して
全校生徒の前で演説をする、という経験がありましたが、
それまで人前に立つ訓練を何一つして来ずに、
最初の経験がいきなり
「壇上で全校生徒の視線を浴びて、
手元の紙に書いた自分の文章を読み上げる」
というものでしたから、それはもう悲惨の一言に尽きます。
普段何の苦労もなくできる
「足を前に出す」「発声する」
という行為が視線の圧の前ではこれほど困難になるのだ、
ということをその時知りました。
その時の私は性格的なものの差で
得手不得手があるのだろう、と受け止めていましたが、
今になって思えば単なる経験不足以外の
何物でもないと思います。
社会人になってからも人前で話す際、
どうも自分の立ち振る舞いに滑らかさがないな
と肩身の狭い思いをすることがあるので、
幼少期に「型」を身につける大切さをしみじみ感じます。
そしてもう一つ。
それは定期的に「自分の社会」の外側の存在に
触れることです。
家庭と保育園の往復でも最低限の社交性は身に付きますが、
気心の知れた関係でのコミュニケーションは非常に楽です。
あまり頭を使いません。
そこで役立つのが
「誰も自分のことを知らないコミュニティ」です。
見知らぬジャングルに放り込まれ、
そこでも普段と同じように
「挨拶をする」「質問に答える」「わからないことは聞く」というような基礎的な応答が発揮できたときにはじめて
「コミュニケーション力がある」
と言えるのかなと思います。
できればそういう場所でも
素早く友達を作れてしまうとなお良しです。
長女はもうプールもピアノも慣れたもので、
すっかり「ホーム」の気分で寛いでいますが、
工作教室はまだまだ「アウェー」のようで
貝のように押し黙ってしまいます。
このようなちょっとした負荷が
人間的にたくましく成長する糧になるはずです。
長女はおそらく
ピアニストにも水泳選手にも芸術家にもなりません。
しかし、それでもその練習の「外側」にこそ、
習い事から得られる意義が存在するのだろうと思います。
どんなフィールドでも力を発揮できる下地が
育ってくれたらと願うばかりです。