下田vsアルボレダ…STORY…双方の運命を分けた一戦を追う! | Go↑kunの海外ボクシング記♪

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ボクシング…勝者と敗者のあまりにクッキリとしたコントラスト…。魅力的な選手達のバックグラウンド、ボクシングビジネスの側面、プロモーター達の思惑、選手の声、あまり入ってこない海外ボクシング情報を書きたいと思います!宜しくお願い致します!

応援している"Sugar"下田昭文選手の海外記事を探していたところ…
凄く良いのを発見。

ご本人も認めている、下田選手の転機になった試合は…2009年2月のホセ・アルボレダ戦。

当時はパナマ出身の強豪世界ランカーという程度しか知りませんでしたが、
濃密なキャリアを積んでいるファイターでしたよね。

下田選手とアルボレダ…双方にとって正に運命の一戦となったこの試合について、
まとめている記事です。

ちなみに…かなり前の記事です。

2011年6月位のものだと思いますので、リコ・ラモス戦前です。

ダニエル・クラベッツさんの記事。

http://www.maxboxing.com/news/max-boxing-news/akifumi-shimodas-luck-of-the-draw?highlight=shimoda%20arboleda

【以下訳】※大体な感じです。

2009年2月21日の後楽園ホールで最も印象深い瞬間だった。ホセ・アルボレダがコーナーで、『もっと戦わせてくれ』と言わんばかりの表情でグローブをガンガン叩いている。対戦相手の下田昭文は、反対側のコーナーでバッティングによる流血が止まらず、ドクターチェックを受けている。

2人のファイターは世界の全く違う場所からやってきて、運命的とも言えるキャリアの途中で交わった。お互い母国では長い間、輝かしい将来を期待されていながら、まだ期待に応えているとは言えない状態、お互いに若く、才能に溢れ、そして凄まじいまでの上昇志向を持っているファイター同士だ。両者にとってこの試合に勝つことで、WBA世界S.バンタム級の指名挑戦へ向けて一歩近付くことになる大切な試合だった。

しかし、この時の偶然のバッティングが、大切な試合をたったの7分間で終了させてしまう。。若干不利に試合が進んでいた下田の感情はどうだったのか。とにかく彼らの戦績にはテクニカルドローの文字が刻まれることになる。この試合の持つ意味の大きさや運命等、まるで関係ないかの様に。

この試合から約2年、下田は夢を掴んだ。2011年1月、激闘の末、李を破りWBA世界S.バンタム級王者に、そして2011年7月には、アメリカ期待のプロスペクトで無敗のリコ・ラモスの挑戦を、敵地アメリカで受ける。日本人として初のアメリカ大陸での防衛戦だ。

一方のアルボレダは、既に亡くなっており、既に忘れられた存在だ。もしあの時、あの瞬間に彼らの頭がぶつからなかったら、両者共に全く違うキャリアを進んでいたのかも知れない。

ホセ"Maco"アルボレダは若い頃から有名というわけではなかった。しかし2001年12月、パナマボクシング界で一気に有名になるキッカケが出来る。当時の世界王者で人気者、ペドロ"Rockero"アルカサルがプロモーターとして2度目の興行をを打つ際、契約を交わしたファイターが、他ならぬアルボレダであったのだ。当時はまだ2戦2勝のティーンネイジャーだったが、一気にパナマボクシング界期待のホープとして名を馳せることになった。興行名は"Los Rockeros del Futuro"。

2002年7月、ラスベガスで行われたWBO世界S.フライ級タイトルマッチで、アルカサルはメキシコのホープ、フェルナンド・モンティエルと対戦、6RTKO負けでプロ初黒星を喫しタイトルを失ってしまう。そして翌日から頭痛に悩まされ、更に翌日、MGMグランドのホテルの風呂場で死体で発見される。モンティエル戦のダメージによりリング禍であった。

アルカサル亡き後、Los Rockerosは施設に変わったが、アルカサルのプロモーター、ロジェリオ・エスピーニョがアルボレダと契約、新たなに作られたアルカサルジムでキャリアを積んでいくことになる。ここでアコスタ、モスケラ、コルドバ、モレノら、本当に強いファイター達と出会い、スパーリングを重ねることで、アルボレダのボクシングは成長した。自らを見出したアルカサル突然の死が、アルボレダのキャリアの大きな影響を与えたのだ。

2003年1月~2004年7月、アルボレダは8連続判定勝利。そして同じパナマ出身のロイネット・カバジェロ戦を前にトレーナーからKOの指示を出されると、そのカバジェロを6Rでストップ。更に1年後には、自分を見出してくれたアルカサルへも挑戦したことがある、ホルヘ・オテロを相手に完封勝利。アルカサルとは接戦を演じたオテロだったが、アルボレダからは1Rも取ることが出来なかった程だ。アルカサルの死後、19戦18勝1分。WBAの1位にまで上り詰めた。その唯一のドローも偶然のバッティングによる3Rテクニカルドローだったのだが。

アルボレダは2007年後半にIBFの世界ランキングにも名を連ねた。そして挑戦者決定戦として、メキシコの強豪フェルナンド・ベルトランと激突。一進一退、血まみれの乱打戦となったが、7R、不運にも右目上をカットしたアルボレダ。出血が止まらず10R、無念のタオル投入によるTKO負け。この敗北によりIBFのランキングがダウン、WBAはランク外に。

エスピーニョはその後アルボレダに再びチャンスを与える。友人でもあり若い頃からのライバルでもある、リカルド・コルドバ戦だ。スパーリングでは数えきれない程手を合わせた相手だ。試合は予想通りの大接戦になるも…マジョリティデシジョンで敗れる。エスピーニョによると、どっちに転がってもおかしくない試合だったという。コルドバはこの直後、世界のベルトを巻いている。

アルボレダはこの次の試合で日本に飛んだのだ。極東の地は遠く未知だったが、WBAの上位ランカーだった下田に勝てば再び世界挑戦の権利が近くなるであろう重要な試合であった。

下田戦が行われた東京の後楽園ホールは小さな会場だ。特に今はすぐ近くに巨大な東京ドームが位置している為、余計に小さく見える。中に入っても、極東のボクシングメッカとして知られている割には控え目な印象だ。しかし半世紀程で、伝説的なファイティング原田や、最近のスター、内藤大助ら、多くの世界チャンピオン達が戦った場所なのである。

2009年2月21日、エネルギーに満ち溢れたボクシングファン達で埋まる後楽園ホール。この日のメインイベントは人気選手同士の日本タイトルマッチだった。王者の応援団は赤色で統一、チャレンジャー側は紫色の応援団だ。

多くの興行と同じ様にこの日も経験の浅い若いファイター達の試合で始まる。ミスマッチもあったかも知れない。2人の将来を期待されるホープの試合もあった。2人共に見事な1RKO勝ちでデビュー戦を飾った様だ。

そしてセミファイナル。下田vsアルボレダの試合開始ゴングは、妙な緊張感の中で鳴り響く。彼れが本当の世界クラスの実力者なのか、試される試合だ。

1R、両者ともすぐに本物のファイターであることを理解させてくれる動きを見せる。パンチの正確性からややアルボレダのペースか。そして2R中盤、バランスを少し崩した下田のアゴにアルボレダの完璧な右ストレートが炸裂、下田は背中からダウン。下田にとってはプロ初のダウンだ。すぐに立ち上がったが、少し効いているか。

さかのぼること10年、下田昭文の高校生活はたったの2か月で終わりを告げていた。そして15歳の男は既にプロボクサーになることを決意していた。すぐに名門帝拳ジムへ入った下田は、生まれながらの才能にして、教えられないギフト、クイックネスという武器を見せ付けていく。そして自らが掲げたスローガンが『夢は自分自身。』

アイドルはジムの大先輩にして伝説的な永遠の王者、大場政夫ではなく、"Sugar"レイ・レナードだ。そしてニックネーム"Sugar"を名乗る様になる。しかしキャリアの序盤では、レナードの様な落ち着いた自己コントロール術はまだ使えなかった。世界挑戦の経験もあるヘラルド・マルティネスとの一戦、下田は顔面とボディへのパンチを打ちまくり、オフェンシブモード全開で最終的には打ち倒すのだが、攻撃ばかりに気を取られることから、パンチを貰う場面も目立った。

勝ち気があり過ぎ、イライラする性格は勝敗にも影響を与えてしまう。デビュー12連勝で迎えた試合、負けるはずのない同国人にマジョリティデシジョンの判定を落としプロ初黒星。この試合直後に前述のマルティネス戦があり、その後2年間で5連続判定勝利。WBAランキングも2位まで上昇する。

しかしこのタイミングで下田は又も敗北を味わう。今回はスプリットのテクニカルデシジョンだ。負ける様な相手ではない様に見えたのだが、自分のパフォーマンスを発揮出来ず、8Rに偶然のバッティングがあり試合がストップされてしまった。リングジャパンのジョー・小泉氏のコメントだ。『下田は最後の攻勢をかける一歩手前だった。対戦相手は明らかにガス欠状態だった。』又、ジョー・小泉氏は下田の無鉄砲過ぎる戦い方も指摘。もう少しだけ我慢強く戦っていれば簡単にストップ勝ちが出来たはずだと言った。下田はこの時のことを自らのブログに綴っている。『コンディションは良かったし、調子に乗ってしまった。自分がどれだけ強いかを見せ付けてやりたかった。』

更に数か月後、『試合に負けて、ボクシングのことを本当に良く考える様になった。自分のリズムで戦うことの重要性にも気付けた。自分はこれまで頭を使わずに、ただフィジカルの強さを活かしてラッシュするだけのファイターだったって気付いた。』このコメントを書いたのは、あれボルダ戦の2週間程前のことだ。2度目の敗北を受け、更なる大きなチャレンジを決意している時だった。『次の相手は自分より世界ランクは低いけど多分、自分よりも強いと思う。世界クラスのファイターだから、興奮しているけど、恐怖感もある。』こう書いた彼は、古くからの友人が送ってくれたお守りに感謝すると言い、このブログを締めくくっている。

もしアルボレダ戦があのまま続いていたら、下田がダウンを挽回し逆転していたかも知れない。しかしそれは誰にも分からない。3R残り1分8秒で、両者が同じタイミングで踏込み、お互いに頭を強打、ステップを後ろに踏んだ下田の顔面から激しく流血をしてしまったからだ。ドクターチェックで続行不可能になってしまったのだ。もしバッティングが4Rに起きていたら、アルボレダが判定で勝利していたかも知れないのだが、ボクシングに"たら、れば"はない、とにかく結果はドローだったのだ。

アルボレダがどれだけ落胆したかは察することが出来る。何カ月も練習をして、何日もかけて太平洋を越え、良い試合をした結果だったからだ。誰が悪いわけでもない。下田においてもここで連敗を喫していたらランキングからも外れていたかも知れない。失意の中、パナマに戻ったアルボレダは数か月の休養を取る。エスピーニョは復帰戦としてコロンビアのフェイデル・ビロリアとの試合を組み、アルボレダは練習を再開していた。

8月6日、パナマシティの郊外にある山へ向かうバスに乗っていたアルボレダ。起伏のある山道を走り、そのまま家までランニングで戻るトレーニングを予定していたそうだ。そのバスで悲劇が起こる。出発して間もなく、タイヤが破裂し、制御不能になったバスは脇道へ転げ落ちた。2人が即死の大参事だ。数分後、アルボレダの父が同じ道を通り、ひっくり返っているバスとその近くで倒れている息子を発見する。意識はあった様だ。その時にアルボレダが発した言葉だ。『溺れるよ。』『もう寝たい。』

その夜、Los Rockerosのチームメート達は家族が集う病院に集結、輸血を申し出た。30人以上からの輸血を試みたが、アルボレダの身体はそれを受け付けず、8月7日の3:00A.M.、力尽きてしまう。奥さんと3人の子供を残し、あまりに早い他界だった。

突然の訃報にパナマボクシング界はショックを隠し切れなかった。葬儀にはパナマの世界王者達が集まった。ロベルト・デュランは号泣、アンセルモ・モレノは、これからの試合は全てアルボレダに捧げると誓った。エスピーニョは、アルボレダのことを"ファイターとしての鏡"と称し、生きていれば必ず世界王者になれただろうと語った。

下田戦の3ラウンドでも実力を証明し、更なる飛躍が期待されたが、彼に用意された人生のストーリーはあまりにも切ないものになってしまったのだ。

下田にとってもあのノックダウンは目覚ましの様なものだった。試合後、こう語っている。『笑われるかも知れないけど、俺は絶対に世界王者になる。今がその時だと思う。』更にアルボレダと戦ったことで海外へ出向くことに興味を持ち、一カ月後にはラスベガスのトップランクジムでケニー・アダムスと練習をすることになるのだ。

海外へ出向くことを嫌がっていた下田だったが、4か月の猛練習を終え帰国した下田は確実に強くなっていた。彼自身、これまでのキャリアの中で最も多くを学べた時間だったと認めている。その後、3連勝した下田は、2010年になりWBA王者の李からオファーを受ける。強豪王者、プーンサワット・クラティンジムからタイトルを奪取した李との試合は2011年1月31日だ。スピードとスキルの差は歴然だった。

エキサイティングな試合になり、まるでアルボレダ戦の様なダウンを喰らった下田であったが、自らは3度のダウンを奪い、圧倒。判定は明白だ。下田は自らの誓いを果たしてみせたのだ。『帝拳ジムに入ってからの目標だった世界王者になれた。』試合後のスピーチは感動的だった。

― 以上 -

何とも凄い巡りあわせ…。

この1戦を境に…ってやつですな。

唸ってしまいます。