『真の「空」(くう)や「無」の境地とは-1-』
よく禅の世界においては言われる、いわゆる「無我の境地」。近年ではスピリチュアルの分野でもよく取り沙汰されてますよね。
皆さんにとっての「空」や「無」とはいったいどんな意味だと思いますか? 恐らくは囚われのない心とか、欲望を捨て去った状態とか、雑念のない状態、あるいは極めてポジティブな心とか子供のように純粋であるとか、おおむねそんなイメージを持たれているのではないでしょうか?
ところで長年、色んな諸々の「空」への考えやアプローチを見聞きしていて思うのは、誰も彼もが「無我」、「無欲」、「無心」といった状態を混同しているのではないかということです。
さらにはそれらこそが「良いこと」だと思い込んでいる根本的に間違った認識を抱いているということ。
と、こう書くとスピリチュアルに傾倒している人にとっては頭が混乱することかと思います。
もっとハッキリと言えば、「無」や「空」とは、禅や瞑想や修行・苦行、あるいは"何かをやったから"到達できる、という類いのものではありません。
つまり、これまで人類がその境地に到るために考え出し行ってきた全てのこと全ての考えは、「まったくの的はずれ」ということです。それら諸々の手法や思想は、ただいたずらに無用なエゴイズムを増長させるためだけのものでしかないわけです。
まずはよくよく考えてみてください。
「無心」とは、余計な雑念を起こさず何も考えない状態。それを「心を空にする」と言います。それは本当に人にとって必要なことだと思いますか?
「無欲」とは、こだわりや執着を捨て、何かを求めることをせず、本能や衝動から来る欲求に任せた言動や行いをしないこと。それは本当に人にとって大切なことだと思いますか?
「無我」とは、己自身の思考や心や個性といった「人間らしさ」を否定し、ただただ自然の一部であろうとすること。それは人にとって価値のあることだと思いますか?
これらの思想は、徹底的な「自己のネガティブの排除」に躍起になっている甚だ子供じみた浅はかで幼稚な、何一つ人間を理解していない、しようともしない愚か者が行き着く「究極のエゴイズムの境地」と言えます。
「瞑想」とは、ただただ自分をどんどんと【殺していくだけの行為】(笑)。
そんなもので心身が健全になれると思い込んでる時点で、その人は既に人間として終わってます(笑)。
物の断捨離は大いに結構なことです。
しかし、人の内なるあらゆる全てのものは、決して何一つ捨ててはいけないのです。たとえそれが他人から受けた辛く悲しい仕打ちや、吐き気がするほどに嫌な思い出であってもです。
それらの全てがあるからこそ、「今の自分がある」のです。過去の積み重ねで、自分の中に嫌いな部分があるとしても、それに背を向けてはいけないし、ましてや忘れようとするなどもってのほかです。
そこから逃げたいから、現実が嫌だから、それらから解放されるために、宗教やら光の世界やら神の救いやら占いやら宇宙からの啓示やら瞑想やらといったくだらないニセ物極まるスピリチュアルに頼って閉じこもるバカが後を立たないんです。もちろん、そこに引き込むヤツラはバカどころか人として生きる価値すらありません。まさにチリ埃同然のクソ野郎です。
「空」の本質も何もわからないヤツが知ったようにそれを説く。そしてそれを真理だと信じ込んでどんどんと無数の人間がエゴを増長させていく。それこそが今現在に到るまでずっと繰り返されてきたくだらないにも程がある人の歴史です。
そこにはもちろん「愛」も含まれます。「愛」が何かも何一つわかってもないのに、簡単にその言葉を口にし、偽りの「愛」によって他人すら平気で傷つけ殺しもするんです。
これから少しずつ、『絶対的真理』を明らかにしていこうと思います。人が行き着くべき「本当の無の境地」がどんなものか、いい加減に気付いてもらおうかと思っています。完全な不定期になりますが、その間も、皆さんが各々とよく考えてみてください。
次回もお楽しみに。
#瞑想は無意味
