仏教を知る知らないによらず、我が国において、観世音菩薩ほど広く人々に知られ愛されている神仏はなかなかないでしょう。「観音様」と親しみを込めて呼ばれ、その姿は仏画や仏像問わず、非常に美しさを湛えたものであります。
観世音菩薩・・・・・・インドに仏教が興った時にブッダの思想を反映した神として、「アヴァロキテーシュバラ」という名の『男神』として生み出されました。それが中国に入った時に『女神』となりました。つまり観世音は男性と女性両方の側面を持つ"唯一"の神でもあるのです。
仏画・仏像の多くを見ていただければ解るように、観世音は見ようによっては男にも女にも見える、非常に中性的な感じで表現されており、その伏し目がちな表情は、柔和な優しさだけでなく、時として怒りすら感じさせる厳しさを見る者に与えます。
仏教における観世音は、人々のあらゆる苦しみを慈悲をもって救う存在であり、神仏の最高位である・・・・・・つまりより高次元の存在である『如来』になれるほどの力と徳を持ちながら、常に人間に寄り添っていたいと、自らそれを拒否して菩薩であり続ける道を選びました。その慈しみ深い性格が、この神の人気のゆえんでもあると言えます。
諸々の救いを行使するために、観世音は様々な姿へと変身する能力を持ちます。例えばよく知られる「千手観音」などは有名ですが、"観音"と名の付く仏だけでも16もあり、さらには「阿修羅天」すら観音の神格の一つでもあります。
インド仏教でのアヴァロキテーシュバラもまた、チベットへ伝わると、最高指導者である「ダライ・ラマ」へと化身して今もずっとチベット仏教の中心であり続けています。
中国ではなぜ突然、女神として見られるようになったのかというと、『観音(クァンイン)』がヒンドゥー教の「マハーディーヴィー(偉大なる女神)」で、「シヴァ」の妃の一人でもある「カーリー・マー」と結び付けられたからで、己の"子宮"の内にある『黄金の器』の中で瞑想を行い、世界を生み出した存在として捉えられました。
このように観世音は、その名はよく知られていながらも、謎の多い神でもあります。しかし、その性格や側面を探っていくと、一つの疑問とぶつかることになります。
ヒンドゥー教の三柱の最高神、「シヴァ」、「ブラフマー」、「ヴィシュヌ」。特にシヴァとヴィシュヌは今でも絶大な人気を誇る神なのですが、例えばブラフマーは仏教では「梵天」 、シヴァは「大自在天」・「伊舎那天」・「摩醯首羅天(まけいしゅらてん)」・「大黒天」・「降三世明王」として確かな性格や役割が与えられているのに対し、ヴィシュヌだけはその存在すらあやふやな、一部の派生宗派でのみ伝えられる「毘紐天(びきゅうてん)」という、あまりにもマイナーな仏の位置に甘んじています。恐らくこの名すらほぼ知られていないでしょう。
これほどの有名なヴィシュヌだけがなぜ仏教では大々的に取り扱われないのか、という大きな疑問があるのですが、冷静にこの神の役割や能力を考えた時、ある結論に到達します。
ヴィシュヌは三神の中では、大宇宙の支配者であり、世界の"維持"を担う神です。また慈悲深く優しい心を持ち、『アヴァタール』と呼ばれる10の姿に化身して、人々を救済します。そしてヒンドゥー教の中で説く"4つの時代の区切り(ユガ)"の最後、つまり世界の終わりである『デヴァ・ユガ』の時には、「カルキ」という名の救世主と化して全ての人間を救う存在となります。
この様々な姿に化身して常に人間を救済するという点で、非常に観世音と共通しているとは思いませんか? そして、仏教において明確にされていないヴィシュヌの立ち位置を考えたら、まさにヴィシュヌこそが観世音のルーツになったのではないかと推測されます。
また、ヴィシュヌの最後の化身であるカルキは、仏教の「阿弥陀如来」と役割がそっくりであることに気が付きます。観世音は「勢至菩薩」と阿弥陀如来をサポートする神ではありますが、その変化の特性を考慮するなら、それらの神自体もまた観世音の姿の一つという解釈もできます。
阿弥陀如来・・・・・・「マイトレーヤ」は別名「アミターヴァ(無量の光を持つ者)」や「アミターユス(無量の命と喜びをもたらす者)」と呼ばれ---そのルーツはゾロアスター教の古き神である「ミスラ」と言われていますが---、はるか未来に天から降臨して世界を救う救世の神です。この点においてカルキとまったく同じ性質を持っています。つまり、阿弥陀如来もまた観世音の一部であると言えるのです。
しかし観世音の特殊性はそれだけでなく、密教においてはまさに宇宙そのものとも言える特別な存在として扱われています。これほど多くの神仏が存在する中で、あの最高神の「大日如来」すらも差し置いて唯一、『観音経』と『般若心経』の中心に居るのです。
それは観世音の名を解き明かした時、全ての謎が解けます。
『世界の音を見(観)る』。"音"とはすなわち"波動"を意味します。そして、般若心経の最初の一節に出てくる観世音の別名・「観自在菩薩」とは、『世界を自由自在に観て操る力を持つ』 という意味があります。
あらゆる波動(エネルギー)を司る神、それが観世音であるならば、諸々の力(波動)を体現する全ての神仏こそ、この神そのものであることが言えるのです。つまり観世音は、まさに『一にして全、全にして一の宇宙そのもの』であり、それは言わば"神の概念をも超越した存在"と言え、無限の慈悲と無限の愛を表した尊き存在・・・・・・それこそが観世音菩薩の本質ではないでしょうか。
そんな優しき神、観世音菩薩を表す真言『オン・アロリキヤ・ソワカ』という言霊には、格別な力が宿っているのでしょうね。
ではまた次回もお楽しみに。
