辰吉丈‘一郎 | ヤナガワゴーッ! の 「肉眼レフ日記」

辰吉丈‘一郎

 
スポーツカメラマン☆ヤナガワゴーッ! の「肉眼レフ日記」





今本屋に並んでいる「ボクシングマガジン」誌に辰吉の記事を載せている。カメラマンとして18年間一緒に戦わせてもらった者としての責任を持って写真を選び、レポートを書いたつもりだ。興味のある人はコメント寄せてもらえたらと思います。

 今日の新聞に6階級制覇のオスカーデラホーヤが引退を表明していた。「最高のパフォーマンスをリングで表現できなくなった。」そして、今後は「ボクシング界のためと福祉のために活動したい。」とも。頂点を極めたボクサーもこの決意をするまでに何年もかかっている。

1995年9月5日 後楽園ホール。日本バンタム級タイトルマッチ。ひとりの韓国人挑戦者が壮絶な打ち合いの末判定負けに屈した。コーナーの椅子に腰掛けて水をかけられうつむいていた男が、周りにいる者の身を凍らせるような雄たけびをあげてなかば意識を失った。セコンドに両脇をかかえられリングを降りるその足は地についていない。控え室で、「頭が痛い。」とバケツに吐いて昏倒。そのまま救急車で病院に搬送され開頭手術。意識は戻らない。医師も驚く体力で当時最新の冷凍治療にも耐え続けたが、6日後の11日に帰らぬ人となった。辰吉のスパーリングパートナーでもあり「かなわん!」と言わしめた第55代日本バンタム級チャンピオン、グレート金山。(本名李東春。)
 この年の2月28日。チャンピオンだった金山は、大手ジムの五輪代表上がりのホープに圧勝したかに見えたが、まさかの判定負けを喫した。韓国人ゆえの苦労の末に勝ち取った、日本で認められる唯一のよりどころを不可解な判定により失ってしまったのだ。圧倒的なパフォーマンスと、人懐っこいキャラクターで人気者だった金山。ファンは黙っていなかった。この試合は有志による署名運動の末についにJBCが動いて決まった再戦だったのだ。
 僕は、当時家が近かったこともあり、ずっと写真を撮らせてもらっていた。合宿先で、「アナタモ ボデのクルシサタメシテミル?」と言われ 気を失ったことも今ではなつかしい思い出だ。ほんとに不細工な天使(東春ごめん。)のようなやつだった。試合の前日から病院で亡くなるまでずっと一緒にいた。金山はベッドの上でチューブに繋がれた状態でも戦っていた。がんばると言う言葉はこいつのためにある。僕なんかが使ってはいけないと思わせる男だった。悔しくて悔しくてどうしようもなくて逝ってしまった男は今も
多くのファンの心の中に生きつづけている。
 
 辰吉は現役にこだわり、ずーっともがいている。稀代のチャンピオン「浪速のジョー」はこれから先どこでなにをしようが、「浪速のジョー」なのだ。一人身だったらどんなにわがまま通してもいいだろう。家族
は言う。「とうちゃんの好きにさしたる。」ここまで言える家族の絆に感動する。そしてそれ以上にその身を切るような辛さは想像を超えるものだ。そんな人たちを前にして端からどうのこうの言うべきではないということも判っているつもりだ。 
 
 先日も試合後にボクサーが開頭手術の末に亡くなった。とても残念だが、これはどんなに厳しく検査をしても誰にも予測できない事故である。
 最近滝つぼに落ちたボクサーが非業の死をとげた。世間には知れ渡っていないが、彼は間違いなく普段からパンチドランカー症状が出ていたそうだ。これは単なる奇禍ではない。あるレベルを超えてしまうと、死に一直線。それがドランカー現象なのだ。 悲しいかな辰吉にも確実にその症状は現れている。

    
 辞める勇気。辞めさせる勇気。 その先にある新たなる戦いに挑む勇気。

 引導を渡すのは 寿希也と寿以輝 二人の息子しかいないのかもしれない。

 
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