名著と名高い「オシムの言葉」を読了。
- 木村 元彦
- オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える
この3年間、自分なりにオシム監督の凄さを知っていたつもりだった。
03年に就任し、話題になったオシム語録を読んでからというもの、僕もすっかり魅せられてしまったファンの一人であり、雑誌で彼の特集が組まれると、そういった記事だけ切り抜いて「オシム用のスクラップブック」を作成していたほどだ。あるときなどは、彼のサイン欲しさに姉ヶ崎にあるジェフの練習場まで足を運んだこともあった(そのときの話は後ほど)。
にもかかわらず、だ。
「言葉を失なう」っていうのは、まさにこういう状態なのだろう。
この本を読み終わった後には、「どうしようもないほど打ちのめされた感じ」が、急激に体中を駆け巡っていった。そのくらい、このオシムという人物が、日本のクラブチームで指揮を執っているという事実は奇跡なのだと実感せざるえをえなかったのだ。
印象的な話を紹介しよう。
彼がユーゴスラビア代表を率いて挑んだ、90年イタリアワールドカップ。
戦争の足音が近づき、政治的な思惑も絡む中、監督である彼が受けたのは、スロベニアグループ、クロアチアグループ、セルビアグループと民族ごとにわかれた記者からの「この出身の選手を起用しろ」という、脅迫めいた主張。各共和国のメディアは、同胞の名を先発メンバー表に書き連ね、その対立は激しく、驚くことに記者会見すら、三つくらいに分けられていたそうだ。
「記者諸君が使え、使え、とうるさい攻撃タレントを3人一緒に使うとどうなるか」
オシムはワールドカップ初戦の西ドイツ戦を記者の言うような布陣で挑み、わざと大敗させてメディアを黙らせた。大切といわれるワールドカップの初戦でこの大胆さ、なのである。
その後、オシムが本来の采配を振るい出すと、チームはコロンビア、UAEを撃破し、グループリーグ突破。決勝トーナメントではスペインを退け、ベスト8では、前大会の覇者・マラドーナ率いるアルゼンチンと激突する。
しかし、この試合のユーゴスラビアは、前半で退場者を出したにもかかわらず、一歩も引かずに前回優勝国と戦い抜き、そしてときに相手を圧倒しながら、120分の死闘を終える。ワールドカップ史上に残るといわれる名勝負は、PK戦へとゆだねられた。
しかし、勇気ある戦いを終えた選手から出てきた言葉は、
「監督、どうか自分にPKを蹴らせないで欲しい。」
という、怯えたものだった。それも9人中7人がそう言って蹴りたがらなかったという。祖国崩壊が始まる直前のPK戦だ。もし外せば、それがどの民族の選手なのか、そしてそれが争いの要因とされるのが、目に見えたからだ。あのピクシー(ストイコビッチ)ですら、蹴りたがらなかった一人だったという。
結果、自らが蹴りたいと言ってきた二人以外がはずし、ユーゴスラビアは負けた。勇気を奮い立たせて蹴ったピクシーは、バーにあてた。このPK戦の前、オシムは「あんなものくじ引きみたいなもの。私は自分の仕事をすべてやり終えた。」といって、ベンチから消えている。敗戦を聞いたのは、ロッカールームだったという。
・・・・と、ここではあえてサッカーに絡んだ話を取り上げてみた。
だけど、本当に読んで欲しい部分は、彼が乗り越えてきたさまざまな悲劇や、そうした体験から得たエピソードにある。墓場となっているスタジアムの写真など、読んでいて思わず絶句してしまうこともあるけれど、オシムという人物がこれまでの人生で背負ってきたもの、そして現在の彼を形成しているそのほんの「ひとかけら」を垣間見れるので、まだ読んでない人は、ぜひ触れてみて欲しいと思う。
少し真面目に書きすぎた。
せっかくなので、先ほど少し書いた僕がオシム監督にサインをもらったときの話でも。
それは彼が就任した2003年のこと。
オシム監督のサインほしさに、姉ヶ崎にあるジェフの練習場まで足を運び、練習の様子を眺めていました。
そうこうしていると練習も終了。
片づけが始まったので、キョロキョロしていると、クラブハウスへと引き上げていくオシム監督の姿を発見!
まわりにいるファンの方々は、オシムさんのオーラにおじけずいたのか、遠巻きに様子を伺っているだけだったので僕が思い切って声をかけてサインを求めると、彼は快く応じてくれました。
ペンを取り、サインを書き始めるオシム監督。
間近に向かい合うと、なんといっても190センチのその巨体に圧倒されました。
なお、サインをもらったあと、当時、雑誌「Footival」で特集されていたクロアチア語を学んでおいたので、ここぞとばかりに、「フヴァーラ(←「ありがとう」の意味)」とクロアチア語でそのお礼を言ってみました。
すると、オシム監督、僕のあまりに流暢なクロアチア語に驚いたのか・・・・いやそうじゃなくて、日本人の話したクロアチア語が珍しかったのでしょうか、あのちょっと不敵な笑みを浮かべながら、僕に「ペラペラペラ~」とお返事してくれたではないですか!
お礼に対する返事なので、たぶん「どういたしまして」だと思うのだけど、よくわからなかったので、日本人独特の愛想笑いで、なんとかその場をやりすごすはめに。うーん、ダメな典型的な日本人だな、おれ。
ただねぇ、あのときのオシム監督の微笑みは、なんというか、人間としての年輪を感じさせてくれるもので、すごくかっこよかったのだ。なんつーか、自分も歳を重ねていくのだから、あんな微笑のできるじいさんになりたいものである。あのとき、そんなことを思ったのを覚えている。
(そのとき書いてもらったサイン↓)
そして、最後に。
あれから15年後の2005年・ナビスコカップ決勝戦。
120分で決着がつかず、PK戦のキッカーを指名した後、オシムが取った行動は「あのとき」と同じだった。
なお、ベンチを離れて消えていった彼の姿を、あのときの僕ははっきりと目撃している。
「・・・やっぱりPK戦は見たくないんだな。」
そう思いながら「でもオシム監督らしいな」という気もして、ピッチに目を移してた。
ただ、「あのとき」と違ったのは、ジェフは選手全員がPKを蹴りたがったという点。
結果、選手全員がPKを成功させ、チームは見事初タイトルをつかんだ。
少したってから、指揮官がようやくピッチに顔を出す。
歓喜を爆発させた選手が胴上げしようと駆け寄るが、彼はそれを頑なに拒んでいた。
そのやりとりがなんだかとても面白くて、国立中を幸せな雰囲気が包んでいた。
そのとき。
オーロラビジョンに映るオシム監督の表情。
その目に浮かぶ、うっすらとにじんだ涙が、とても印象的だった。