ヴェルディにやってくる前。

平野孝というプレーヤーに対する僕のイメージは、「左足から放たれる強烈なミドルシュートがウリの選手」というものだった。やはり98年ワールドカップフランス大会での印象が強かったのだろう。「岡野の俊足」と並び、「平野の左足」というのは、ゲームの流れを変えるときに必要な飛び道具として期待されていたのだ。


 本大会ではアルゼンチン戦、ジャマイカ戦に途中出場を果たすものの、本人は悔いが残る出来だったようだ。その後、彼は名古屋グランパスエイトをちょっとしたゴタゴタで退団してから、京都パープルサンガ、ジュビロ磐田、ヴィッセル神戸と渡り歩いて、2003年に東京ヴェルディへとやってきた。



 ひさしぶりにじっくりと見る平野孝のプレー。

そこには、変貌を遂げたプレースタイルがあった。


 自分の名刺代わりだった強烈なミドルシュートは鳴りを潜め、代わりに「これでもか!」というほど献身的に左サイドをアップダウンするその姿。守備の際には、誰よりも労をいとわずプレッシングを敢行し、攻撃に移れば全力でゴール前へと精力的に走り出す。そして、たとえパスがこなくても、相手の意識を自分にひきつけ、味方のスペースを生み出す。


 その姿はときに「健気さ」さえ、感じさせるものだった。そのくらい、足元でボールをまわしたがる選手が多いヴェルディにおいて、平野というのは貴重な存在であり、ピタリと噛み合ったのだ。事実、2003年シーズンのセカンドステージ、破壊力抜群の攻撃力で首位を走るヴェルディで際立っていたのが、三浦淳宏と平野孝のコンビネーションで崩す左サイドだった。あのときのコンビは、本当に面白いように相手を切り裂いていったものだ。


 そんな献身的なプレーヤーとして機能していた平野だけど、それでも、ときおり牙をむいたかのように放つ鋭い弾道のミドルシュートは、健在だった。たとえば、昨年のホーム・東京ダービーで見せた、惜しくもポスト直撃となったあのミドル。ゴールこそならなかったが、弾かれたボールの跳ね返りの凄さが、いまだ彼の左足に込められているその威力を如実に示していた。


 その一方で、03年のアウェイ東京ダービーでは、相手陣内でボールをかっさらうと、飛びつく土肥の手をあざわらうかのような、そして鳥肌の立つほど美しい軌跡のループシュートを披露。年齢を重ねるにつれ、左足には、柔と剛がかね揃わっていったのかもしれない。


 しかし、彼がああいう献身的なプレースタイルになったのはなぜなんだろうか。


 そんな疑問をふと思って調べていたところ、98年のフランス大会終了後に答えたインタビューで、彼が興味深いことを答えていた。それは次のワールドカップ、2002年について尋ねられたものなのだけど、そこにヴェルディで見てた平野のヒントがあったような気がした。


 「2002年は、きっと伸二(小野)のチームになるんでしょうね。彼はすごい才能の持ち主。もし叶うんだったら、オレは伸二のチームで彼を最大限に引き立ててやれるようなプレーをしたい。脇役じゃないかって?いや、それで十分満足できます。主役であるヤツに一番いいプレーをさせる。そういう面白さとか気持ちを、今度のフランスで学んだと思っているから。代表ではバイ・プレーヤーとしての最高のプレー、それを目指して行こうと思う。」


 ・・・なるほど、である。主役であるヤツに一番いいプレーをさせる。そういう面白さとか気持ちを、今度のフランスで学んだと思っているから。今現在の彼のプレースタイルを形成しているものは、このときのフランス大会にあるのかもしれない。


 そして今年ヴェルディと契約を結ばなかった彼は、海外リーグに挑戦という噂がある。某スポーツ紙によると、「フランスの二部リーグ」の可能性もあるかもしれないとのことだ。


 彼にとってフランスというのは、もしかしたら、サッカーのヒントがつまった場所なのかもしれないな。そんなことをふと思った。


 さようなら、平野孝。そして、がんばれ。