今年のNHK大河ドラマの舞台は江戸の端っこにあった吉原が舞台ですね。

 

現在の吉原の地名は浅草の裏っ手にある千束です。

私がこよなく愛している「あんずのミナツネ」のほど近くです。

 

私は品川から、山手線、中央線を乗り継ぎ大学の最寄り駅の飯田橋迄が通学路線でした。

 

鉄道好きの私にとって品川機関区に留め置かれているロイヤルエンジンEF58―61機とお召し予備機のEF58-60 の2両を確認しながら東京駅に向かう日々は学生時代の日課でした。

 

その頃の山手線の内側には漁船の船溜まりがありました。

うろ覚えなのですが港区の芝浦から鹿島橋を過ぎ国鉄線路の下を漁船が船溜まりに入って行くのを見た覚えがあります。

 

東京の下町はそのほとんどが江戸時代に埋め立てられ造成された土地です。

神田にあった山を切り崩し現在の中央区の多くを埋め立てたって凄いですよね。

 

東京駅の南口は八重洲口です。

当然に江戸時代以前には海の入江でした。

八重洲口も神田山を切り崩して埋め立てられた土地です。

 

大森には大森貝塚があり貝塚は武蔵野台地の崖線の真下にあり縄文時代には現在のJR大森駅辺りが海岸線でした。

大森駅辺りの武蔵野台地の崖線はその形状が顕著で屏風のように切り立っています。

大森駅の南口と北口を見比べると武蔵野崖線が今も体感することができます。

 

私の実家は武蔵野台地の崖線の下で大昔には海でしたので庭を掘ると貝殻が出てきます。

 

東京23区の中心部に位置する六本木付近も六本木ヒルズに代表されるように山(丘)と谷によって形成されています。

 

六本木交差点から外苑東通りを青山通りに向かうと乃木坂がありその下には有名な乃木神社があります。

そのあたりの地形は赤坂方面から乃木神社に向かう道沿いと外苑東通りの道沿いと上下に街並みが分かれています。

東京にはそのような上下に分かれた街並みが多いのが特徴です。

 

渋谷道玄坂、宮益坂。神田幽霊坂などの他、神楽坂を降りて飯田橋駅から法政大学をに向かう富士山は見えない富士見坂など山手線とその付近は山(丘)と谷ばかりです。

 

山手線と山手線内を横断する中央線は線路の勾配を避けて建設されたため谷底を走っている電車です。

ついでに記すと品川駅は品川区にはなく港区です。

目黒駅も目黒区ではなく品川区です。

 

当初の江戸の範囲は明確な線引きは有りませんでした。

四谷4丁目交差点には現在も四谷大木戸跡があります。

元禄時代の頃までは四谷大木戸の外は江戸ではなく武蔵野国の内藤新宿として甲州街道に設けられた宿場町でした。

 

しかし、元禄時代以降の江戸の発展に伴い甲州街道最初の宿場町であった内藤新宿は廃止されました。

 

その後も江戸は発展し現在の山手線西側のそのほとんどが江戸府内となりました。

江戸城は最初に記述した武蔵野台地の崖線の端に位置しています。

江戸湾を望む高台に建設されたのが江戸城で江戸城と武家屋敷の建設のため多くの寺や墓は江戸に隣接する新宿や江戸の端にあたる上野界隈に多く集まるようになりました。

 

又、江戸では大火事が度々起こっており寺は大火事を避けて江戸中心部から江戸郊外の新宿界隈に移転していったことも新宿に寺社が多い理由です。

 

そうそう、東京郊外の武蔵野に今では若者にも大人気の吉祥寺があります。

吉祥寺は江戸の大火で焼け出された江戸吉祥寺界隈に住んでいた人々が移り住みそのため地名が吉祥寺になったそうです。

当然に、吉祥寺には吉祥寺はありません。

吉祥寺は江戸の大火で駒込に移転し現在に至っています。

 

東京というと下町の埋め立て地の平坦なイメージがあるかもしれませんが、実は山と谷によって形成されています。

江戸時代の現在の新宿界隈の甲州街道では雨の日にはぬかるんで甲州街道の泥んこの坂持を這って上るようなこともあったそうです。

 

昔は東京らしい素敵な地名が沢山ありました。

浅田次郎さんの「角筈にて」という小説をご存じの方も多いと思います。

角筈は江戸時代から昭和の中頃まで使われていた現在の新宿界隈の地名です。

 

同様に1964年の東京オリンピックを境として御徒町、田町、田原町、稲荷町などの町名も消えてしまいました。

現在も新宿区には角筈の地名は残っていますし御徒町、田町、田原町、稲荷町は駅名として現在も使われていますが東京の地名町名整理で正式な町名が味気ない地名となってしまったことは今でも残念に思っています。

 

東京は老若男女にとって買い物や各種エンタメ迄何でも揃う世界でも有数なメガシティです。

 

しかし、その変貌は激しく東京を感傷的に故郷と思うことは難しい町です。

それでも、本所や上野界隈を歩くと江戸だなと思える場所も残っています。

 

そうそう、東京人として一言苦言を呈したいことがあります。

それは月島に代表されるもんじゃ焼きです。

 

私が子供の頃のもんじゃ焼きはその辺の子供相手の駄菓子屋の軒先で子供が小遣いで食べることが出来るファストフードのような食べ物でした。

 

そんな程度のうどん粉とソースを混ぜて溶いただけのようなミズっぽい生地の食べ物に1000ー2000円も出すなんて信じられません。

駄菓子屋の子供相手のもんじゃ焼きに付加価値を与えたとすればそうなのでしょうが東京人としてはそんな大金を出して食べるものではないと思っています。(個人の意見です😥)

 

関西の方はお好み焼き、たこ焼きにプライドを持ってるなと感じています。

バンコクに関西から転勤して来られる方々はタコ焼き機持参で来られる方も多くたこ焼きは関西では家庭に浸透していると感じます。

しかし、東京では自宅で昔からもんじゃ焼きをしているという話は聞いたことがありません。

 

子供の頃の駄菓子屋では「もんじゃ」でしたがいつ日からか「もんじゃ焼き」となったのは関西のお好み焼きやたこ焼きに倣ったのでしょうね。

東京ではその程度の認識でしかないのがもんじゃ焼きです。

 

もんじゃ焼き屋さんには失礼ですが、もんじゃ焼きは東京のソウルフードではないと思っています。😅