連日の悪天候の西ヨーロッパです。
チューリッヒも例外でなく天気最悪。
たまーに、思い出したように晴れるんですが、
でも過去3週間でまともに晴れた日は
多分1.5日分位しかないんじゃないかと。
最低気温も5℃以下の日もざらでね。
もうこのまま夏は来ないんじゃないかと。。。
週末はジュネーブにいたのですが、
ジュネーブはまだもう少し暖かかったなあ…。
――――――――――――――――――――――――
さて、
トルコでの暴動のニュースは
日本でもちらちらとは報道されているようです。
オリンピック誘致の話にすり替えられてて
違和感ありありではありますが。
イスタンブールのタクシム周辺にて
保守的な現政権に対する市民のデモ。
フェイスブック等々で
個人の声がこれまでになく聞こえやすい時代で、
一般的な報道機関では言及されない様な話も
届いていたりはします。
その中で一番危機意識をトルコ市民が感じているのは
政府は市民の声を無視し、
もみ消そうとしているのではないかという点だとか。
トルコ国内では暴動についての取材も報道もなく、
とても大事になっているのに
テレビをつけてもどうでも良いニュースばかりと。
それに危機感を感じて
ネットを通じて他国の人に現状を伝える人々。
もちろん内容は一般的なニュースには載らないものです。
国の警察が無実の国民に
放水銃や催涙ガスを至近距離で放って
傷つけている写真なんかもあってね。
自由と権利を守りたいだけの我々市民を
助けてほしい、支持してほしいと呼び掛ける。
そりゃ彼らに同調してこちらも憤りを感じます。
でもでも、
公認機関の報道に疑問を挟むと同じ次元で、
個人の発信する情報にも疑問は生じる訳で。
「それって本当なの?」ってね。
日本人の僕がこの両極端の情報に触れて
なにより最初に考えさせられるのは
政治的問題について国民が行動を起こす事そのもの。
もちろん暴力・破壊がその手段になるべきではないけど、
それでも表明したい意見があるということは、
なかなか日本では今の時代無いことですよね。
仮に日本でもそのような意見を表明場があったとしても
予定調和的なデモという形だったりして。
最初から議論の到達点を想定して上で
話しあいを持つ日本の文化を根っこにしたら
何かをきっかけに国民の意見が急に沸騰するということは
やはりあまりないでしょう。
もちろん2011年の大災害と
それに続く放射性物質の拡散の問題は
今もとても大事な問題やし、
とてもたくさんの人々が明日の日本を思って
根気強い活動をしていることは
想像しながらこれを書いてはいるのですが。
――――――――――――――――――――――――
ロバートと話していて
いつもなかなか折り合いのつかない話があります。
それは政治に参加する一市民の姿勢のあり方について。
近代以降大変複雑な歴史を持つドイツの人間の彼は、
政治的な事について意見があるならば
それは声をあげて表明すべきだと言います。
曖昧な気分で自分の意見を割りきらないと
周りに流されてしまうから。
周りの意見よりも何よりまず自分の意見が大事。
もちろんそれはそれで納得します。
でもやっぱり日本的考えは違っていて、
周りの人々が何を考えているかを
そもそもの前提として
その上に自分の意見(思い)を乗せるといった感じですよね。
世論というものがそもそもあって
それを軸に自分の立場を決める。
こと日本人にとってこれってややもするネガティブにも聞こえるけど、
僕はこのシステムはとても良いシステムでもあると思っているのです。
だって、そもそもの軸さえ大きく狂わなきゃ
大変革は起きなくても堅実に社会を作れるから。
先日、ポーランドから帰ってきてしばらくたった頃、
ロブ君と僕がいつものごとく議論をしてたのですが、
僕は彼に対して
「西欧式の意思表明は、
社会の世論が極端な方向に傾いた時に
それのカウンターバランスが無くなり得るんじゃないの?
例えばナチスドイツの犯した過ちもその一例ではないの?
皆が一斉に強い意見を唱えてしまう場合のリスクがあるはずで、
うちら一緒にポーランドでアウシュビッツに行って、見てきたよね。」
と意見。
そしたら彼は
「いや、民衆の大半が曖昧な意見しか持てていなかったからこそ
ごく一部の少数が発言力をもってしまって
あのような極端な方向に行った訳であって、
決して一般市民の広い強い意志ではなかったんだよ。
誰もあんな非人道的な行為を積極的には支持しないよ。
我々ドイツ人はその経験があるからこそ
今の時代ではむしろ意見を
はっきり個人レベルで表明するようになったんだよ。」
と。
それを聞いて僕は目からウロコ。
確かにそうなのかもしれないとね。
例えばなんとなく社会不安のはびこる現代日本で、
ネット右翼の意見がやたらと強く聞こえたりする時、
なんとなくその感情に流されてしまいそうな危うさを
感じるのは多分僕だけじゃないと思うのです。
意見の多様性、言論の自由はもちろん損なわれてはいけないけど、
それは倫理的な規範が共有され守られている限りの話しで。
――――――――――――――――――――――――
さて、今回のトルコの暴動。
信頼できる情報なんていうものはそもそもないと
個人個人が分かってしまっている時代に
現場で声をからして傷ついている彼らから
どう自分が影響を受けるのか。
自分自身に今回言い聞かせるのは
「自分で考えろ」
という事。
あんまりにも当たり前かもしれないけど、
自分の興味が尽きない限り手に入れられるだけの情報を手に入れ、
それをその情報の信頼性から何からを吟味し、
自分の解釈を持つこと。
そしてそれを伝える必要があれば臆せず伝えること。
そしてそして人の言うことをに耳を傾けること。
そもそもの教養だとか、
好き嫌いだとか、
解釈をゆがめる可能性のある要素は
各個人がそれぞれに違う形で持っているけど、
それも含め各自の解釈であってね。
それぞれを尊重し合った
双方向のコミュニケーションが重要になると思うのです。
マスメディア対一般市民の一方通行の構図が
もはや崩れつつあるのは明白で、
その過渡期に個人個人がより個人の自覚を強め
個人の自由・権利をうたうのならば、
個人同士の対話のあり方を見つめ直す事が大事なような
そんな気持ちがするのですな。
自分の興味と解釈両方に責任を持って、
人との対話をしていくことが
無国籍人になりつつある自分に
自分で課すこれからの課題。
興味と解釈に責任をもつとは
人を無為に傷つけないということ。
Do No Harmっていう倫理の基本を忘れず。
時代と土地の文脈でHarmの定義が変わることも忘れず。ね。
この写真はアウシュビッツの線路。
負の遺産からこそ学ばなければなりません。
チューリッヒも例外でなく天気最悪。
たまーに、思い出したように晴れるんですが、
でも過去3週間でまともに晴れた日は
多分1.5日分位しかないんじゃないかと。
最低気温も5℃以下の日もざらでね。
もうこのまま夏は来ないんじゃないかと。。。
週末はジュネーブにいたのですが、
ジュネーブはまだもう少し暖かかったなあ…。
――――――――――――――――――――――――
さて、
トルコでの暴動のニュースは
日本でもちらちらとは報道されているようです。
オリンピック誘致の話にすり替えられてて
違和感ありありではありますが。
イスタンブールのタクシム周辺にて
保守的な現政権に対する市民のデモ。
フェイスブック等々で
個人の声がこれまでになく聞こえやすい時代で、
一般的な報道機関では言及されない様な話も
届いていたりはします。
その中で一番危機意識をトルコ市民が感じているのは
政府は市民の声を無視し、
もみ消そうとしているのではないかという点だとか。
トルコ国内では暴動についての取材も報道もなく、
とても大事になっているのに
テレビをつけてもどうでも良いニュースばかりと。
それに危機感を感じて
ネットを通じて他国の人に現状を伝える人々。
もちろん内容は一般的なニュースには載らないものです。
国の警察が無実の国民に
放水銃や催涙ガスを至近距離で放って
傷つけている写真なんかもあってね。
自由と権利を守りたいだけの我々市民を
助けてほしい、支持してほしいと呼び掛ける。
そりゃ彼らに同調してこちらも憤りを感じます。
でもでも、
公認機関の報道に疑問を挟むと同じ次元で、
個人の発信する情報にも疑問は生じる訳で。
「それって本当なの?」ってね。
日本人の僕がこの両極端の情報に触れて
なにより最初に考えさせられるのは
政治的問題について国民が行動を起こす事そのもの。
もちろん暴力・破壊がその手段になるべきではないけど、
それでも表明したい意見があるということは、
なかなか日本では今の時代無いことですよね。
仮に日本でもそのような意見を表明場があったとしても
予定調和的なデモという形だったりして。
最初から議論の到達点を想定して上で
話しあいを持つ日本の文化を根っこにしたら
何かをきっかけに国民の意見が急に沸騰するということは
やはりあまりないでしょう。
もちろん2011年の大災害と
それに続く放射性物質の拡散の問題は
今もとても大事な問題やし、
とてもたくさんの人々が明日の日本を思って
根気強い活動をしていることは
想像しながらこれを書いてはいるのですが。
――――――――――――――――――――――――
ロバートと話していて
いつもなかなか折り合いのつかない話があります。
それは政治に参加する一市民の姿勢のあり方について。
近代以降大変複雑な歴史を持つドイツの人間の彼は、
政治的な事について意見があるならば
それは声をあげて表明すべきだと言います。
曖昧な気分で自分の意見を割りきらないと
周りに流されてしまうから。
周りの意見よりも何よりまず自分の意見が大事。
もちろんそれはそれで納得します。
でもやっぱり日本的考えは違っていて、
周りの人々が何を考えているかを
そもそもの前提として
その上に自分の意見(思い)を乗せるといった感じですよね。
世論というものがそもそもあって
それを軸に自分の立場を決める。
こと日本人にとってこれってややもするネガティブにも聞こえるけど、
僕はこのシステムはとても良いシステムでもあると思っているのです。
だって、そもそもの軸さえ大きく狂わなきゃ
大変革は起きなくても堅実に社会を作れるから。
先日、ポーランドから帰ってきてしばらくたった頃、
ロブ君と僕がいつものごとく議論をしてたのですが、
僕は彼に対して
「西欧式の意思表明は、
社会の世論が極端な方向に傾いた時に
それのカウンターバランスが無くなり得るんじゃないの?
例えばナチスドイツの犯した過ちもその一例ではないの?
皆が一斉に強い意見を唱えてしまう場合のリスクがあるはずで、
うちら一緒にポーランドでアウシュビッツに行って、見てきたよね。」
と意見。
そしたら彼は
「いや、民衆の大半が曖昧な意見しか持てていなかったからこそ
ごく一部の少数が発言力をもってしまって
あのような極端な方向に行った訳であって、
決して一般市民の広い強い意志ではなかったんだよ。
誰もあんな非人道的な行為を積極的には支持しないよ。
我々ドイツ人はその経験があるからこそ
今の時代ではむしろ意見を
はっきり個人レベルで表明するようになったんだよ。」
と。
それを聞いて僕は目からウロコ。
確かにそうなのかもしれないとね。
例えばなんとなく社会不安のはびこる現代日本で、
ネット右翼の意見がやたらと強く聞こえたりする時、
なんとなくその感情に流されてしまいそうな危うさを
感じるのは多分僕だけじゃないと思うのです。
意見の多様性、言論の自由はもちろん損なわれてはいけないけど、
それは倫理的な規範が共有され守られている限りの話しで。
――――――――――――――――――――――――
さて、今回のトルコの暴動。
信頼できる情報なんていうものはそもそもないと
個人個人が分かってしまっている時代に
現場で声をからして傷ついている彼らから
どう自分が影響を受けるのか。
自分自身に今回言い聞かせるのは
「自分で考えろ」
という事。
あんまりにも当たり前かもしれないけど、
自分の興味が尽きない限り手に入れられるだけの情報を手に入れ、
それをその情報の信頼性から何からを吟味し、
自分の解釈を持つこと。
そしてそれを伝える必要があれば臆せず伝えること。
そしてそして人の言うことをに耳を傾けること。
そもそもの教養だとか、
好き嫌いだとか、
解釈をゆがめる可能性のある要素は
各個人がそれぞれに違う形で持っているけど、
それも含め各自の解釈であってね。
それぞれを尊重し合った
双方向のコミュニケーションが重要になると思うのです。
マスメディア対一般市民の一方通行の構図が
もはや崩れつつあるのは明白で、
その過渡期に個人個人がより個人の自覚を強め
個人の自由・権利をうたうのならば、
個人同士の対話のあり方を見つめ直す事が大事なような
そんな気持ちがするのですな。
自分の興味と解釈両方に責任を持って、
人との対話をしていくことが
無国籍人になりつつある自分に
自分で課すこれからの課題。
興味と解釈に責任をもつとは
人を無為に傷つけないということ。
Do No Harmっていう倫理の基本を忘れず。
時代と土地の文脈でHarmの定義が変わることも忘れず。ね。

この写真はアウシュビッツの線路。
負の遺産からこそ学ばなければなりません。