やはり蓄積した疲労は半端ではなかったようで、
今日は珍しく本意気の昼寝をしてしまいました。
でも昼間にベッドにもぐるのはなんか贅沢ですね。
熱い風呂にもゆっくり浸かって、
風呂上がりのビールに唸り、
野菜と魚がメインの夕食を取り、
キルシュを飲みながら音楽を聴く
すっかりリラックスした日曜の夜です。
さて、久しぶりに読書感想文。
ミュンヘンの旅に持って行った本。
ポール・オースター作の『偶然の音楽 (The Music of Chance)』。
オースターのどの小説にも共通するんですが、
救いようのない喪失感が常に付きまといます。
でもだからと言って絶望に堕ちていく訳ではない。
失える限りのものを失ったときに
人はどうやってその先に生きる道を
模索するのかって部分にウェイトがあって、
はたから見たら一切生産性のない行為の中で
徹底的に己を見つめなおし哲学を深める姿勢を取る登場人物に
気持ちを重ねて自分も追体験できるか否かが
おそらくオースターの作品を楽しめるかどうかを分けるポイントでしょうか。
幸運にも物質的にも満たされた現実世界を生きる読者が
「失うこと」をいかに実感できるか。
物質的な喪失はもちろん、
金銭、
人間関係、
愛情、
正気、
欲望、
命、
などなど失う対象って実はたくさんあって、
一体現実世界に住む我々はどうやってそれらを繫ぎ止めているのか。
そもそも失わない努力をしているのか?
しているとしたら、それは意識的に?
意識的でないとするならば、喪失を避けるのは本能?
さて、本書の主人公ナッシュは、
物語の始めで自らの選択で、とある「喪失」を選びます。
自分の選択の範囲で、物質・金銭の全てが喪失され、
その時点で自らの人生の選択の権利が失われ、
その後さらなる喪失も、何かの獲得も
全てが自分のコントロールできない部分で起こる。
自分の置かれた状況も、
ギャンブルの行方も、
他人の策略も、
思わぬ親愛感も、
何もかも偶然のみが支配する。
自らが影響力を与えられないものはすべて偶然の産物。
偶然の積み重ねは
音楽を奏でるけれども
必ずしも音楽とは美しいハーモニーを奏でるだけとは限らない。
この物語で救いのある部分は、
主人公ナッシュの思考をつぶさに追跡出来ることができる部分で、
無邪気で陽気な時、
計算高く状況を操る時、
素直に運命に従うとき、
猜疑心と妄執に囚われる時、
理屈を失う時、
それぞれのナッシュはすべてナッシュという人間であり、
偶然に支配された人生の状況設定に対して、
きわめて自然に心が変遷していくのです。
ジム・ナッシュという人物の音楽が流れ続けます。
これはオースターのストーリーテリングの妙で、
とにかく心理描写に説得力が溢れて、
偶然に翻弄される荒唐無稽なストーリーでも
ナッシュを通じて物語に一つの筋が通る。
そんな感じで説得力が強いだけに、
この物語を最後まで読んだ時の
圧倒的な虚脱感は半端ではなかったのです。
オースターの他の作品は
喪失を自ら選らんだ主人公が
その後も自らの意思をある程度は持って道を開く展開のものが多いけど、
ナッシュは偶然に身を任せるしか選択肢は残されず、
その偶然が最後に奏でた空虚な音楽。
偶然の音楽の美しさのみに囚われたジャック・ポッツィと
偶然の音楽に自らの精神の器の許す限り耳を傾けたジム・ナッシュ。
彼らがこの物語から姿を隠した先は
ポジティブな未来なのか?
ネガティブな未来なのか?
そもそも未来なんて無いのか?
その結末を読者の感情と理屈で恣意的に想像することに意味はあるのか?
多分偶然の原理に反する読者の結末予想を拒絶する部分に
この小説の虚脱感の本質があるのではないでしょうか。
その感覚をじんわりと感じさせられる読後感は
ちょっと普通ではないのです。
思い返すだけで心にずしんと錘を吊るされます。
人生の意味がどうとかそんな議論が好きな方には是非お勧めですよ。
そんな重い話はちょっとって方は、きっと読んでも何にも楽しくないかと。
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