本日は間違いなく
スイスへ越してきて以来、一番良く喋った日となりました。
朝から打ち合わせにつぐ打ち合わせで、
それも英語日本語が激しく入り乱れる感じで。
ついでに昨日の夜のおしゃべりモードがまだ抜けずに、
打ち合わせの時間の他もやたらとべらべら喋りまくり。
いや、喋りつかれた。本当に笑
もともと良く喋る方だとは思うんですが、
そのおしゃべりクオリティが最近になって
やたらと盛り上がってきてるのです。
すっかり英語が日常の言葉として定着した証拠だとも思います。
さて、だらだら続けてるオランダ旅行記を続けますよ。
まだ終わる気配が無いのです。
ネタの尽きない苦しみですね。
6月27日(日) 午前中
例のホテル(→ このホテル )にて朝食。
オランダで美味しいものはそもそも期待してなかったんですが
(オランダ関係者の皆様、ごめんなさい)、
ホテルの朝食も残念な感じで。。。
一体どういう神経で料理をしたら
炒り卵が塩っけの一切ない、固形化した卵と油の混ぜ合わせになるのか。。。
きっと幼少期から料理ってそういうものだと思って育つと、
その後そういうものを作るようになるんでしょうね。
やっぱ食育って大事ですよ。ものすごく。
ヨーロッパへ来てから特にそう思うのです。
それはさておき、
この日の午前は「アンネ・フランクの家」を訪問。
ナチス・ドイツの犠牲者の中でもとりわけ有名なアンネ・フランクは、
収容所に移送されるまで、アムステルダムにて暮らしていたのです。
その家自体は取り立てて変わった場所にあるわけでもなく、
周囲は普通の雰囲気。
建物の中は今は博物館となっています。
アンネとそのフランク家と、共同生活をしていた他のユダヤ人たちは
一般的な建物の裏屋根裏とでもいいましょうか(英語ではSecret annex)、
外からは見えない部分で、
ナチスドイツの目の届かぬようひっそりと暮らしていたのです。
このSecret Annexは
内装の類は残されてないのですが、
建物自体は今も当時のまま保存されていて、
隠し階段とか、
生活に少しでも彩りを得ようと
アンネ自身が壁に張った雑誌の切り抜きとかが、
そのまま残されているのです。
その中にて、
アパートのほかの住民に存在がばれないように、
たとえば暗幕を一日中懸け、足音も忍ばせて、水も流せず、
という圧迫感といつ来るかもしれぬナチスドイツへの恐怖心を想像するだけで、
胸がつぶされそうになるのです。
そしてあまりにも有名な「アンネの日記」。
この博物館では実物(の1部)を展示しています。
日々の不安感を綴った日記で、
当時14,5歳だったとは思えないほど
聡明で、思慮深く、
そのうえまったく無邪気な文章に
人間性のポジティブな部分と感じると同時に、
本当に何の罪もないその少女が
ただ、その人種だけを理由にあまりにむごい死を
遠く離れたアウシュビッツにて迎えなければならなかった事実、
そしてその死をもたらしたの人間のおろかさを
痛いほど感じた時間となりました。
日記の1ページに
当時まだ確か12,3歳のアンネの
小さな小さな肖像写真が4枚大事に貼られているページがあって、
そのはにかんだ顔がすっかり焼きついてしまって。
そして、実際にアウシュビッツで撮影された
あまりにむごい壮絶な映像もすっかり焼きついてしまって。
今僕の周りにもユダヤ系の人はたくさんいて、
その中でもとりわけ大事な友人達もいて、
昨日も書いたんですけど、その出会いにはとにかく感謝でいっぱいで、
でも、立ち止まって考えたら、
ユダヤ人の迫害の歴史がなければ
おそらく僕は彼らと出会うことはありえなかったんです。
その600万人の命が失われなければそれから60年後の世界は
必ず今とは違っていたはず。
歴史にタラ・レバはないし、
不幸にも命を奪われた人たちはもちろん、
今生きてる我々に罪があるわけではないので、
こんなことに思いをめぐらせても意味はないのですが、
それでももしかしたら、
今僕が手にできている出会いの幸福に
真摯に感謝して、出会いのエネルギーをよりポジティブな方向へ導いていくことが、
先人達へのリスペクトにつながるのかもしれない、
なんていうことを考え、
もうなんだかわけのわからない涙が出て出てしょうがないのでした。
そして博物館は大混雑。
干からびるかと思ったよ。。。