日本時間ではすっかり過ぎてしまい、

スイス時間でも日付は変わってしまっておりますが、

25歳になりました。


いまこうして数字に書いてみると、随分自分も大きくなったなぁと少し吐息。

だって、小学生の頃の想像力を持ってしたら、

「25歳=すげー大人」だった訳で、

しかし、実際には今この瞬間を生きてる自分は常に自分でしかなくて、

それは自分が小学生なのかなんなのかとかには関係する問題ではなく、

つまり何をまどろっこしく言っているかというと、

大人になった実感なんてあんまりないということです。。。


しかししかし、最近頓に感じる自分の変化は、

・明らかに運動能力が低下し始めてる

・刹那的な記憶は容赦なく消えていく

・もしかして髪の毛減ってきてる???

と、ばっちり大人の階段を上っている自分の肉体。

必要以上に嘆くつもりもありませんが。





さて、なんであんまり自分が大人になった(なってきている?)実感がないのか、

ここはひとつ冷静に考えてみようという夜更けです。

BGMはリヒャルト・シュトラウスの“Also sprach Zarathustra”です。



僕は常々、

「成長のチャンスがたくさん転がっているのは、年長者に囲まれている時である」

と思っているのです。

根が生意気なものなので、少し年の離れた人たちに囲まれると、

身の程もわきまえずに、

「その人たちのできることが自分もできたい、

その人たちの考えてることを理解したい、

対等な目線を向けて欲しい(身勝手ですね。。。)」

と、思う癖がありまして、

何かと背伸びをし続けて育ってきた気がします。


たぶん比較対象(あるいはライバル意識を持つ対象)が

自分より何か遥かに優れたところがないと張り合いがないせいです。


なので、どの環境においても常に年長者の様子をじっくりうかがう癖がつき、

おそらくそのおかげでうまく自分を育てられた部分も少しはあって、

結果、相対的に年少者であることに一種の安心感?を得ているのですね。




で、そんな人間が儒教的な年齢ヒエラルキーのない欧米社会にやってきたわけです。

大学でも研究所でも、それぞれ30人くらいいる環境で、

どちらでも見事に数字上も最年少、経験値も最浅レベル。


これは僕にとってはうってつけの自分開拓環境なのですが、

日本との生活感覚の違いは、

「確かに経験値の違いは重要だけど、年齢の違いなんて大した意味はない」

という社会のコンセンサス。

若くても、裏付けのある意見を言えば周囲はその人の発言を大事にするし、

逆に言うと、「何にも言わない人≒何も考えてない人」という判断が下されます。


これって語学弱者にとってはかなり緊張感の高まる環境です。


例えば英語で会話してるときに

相手の英語を聞き取って、脳内翻訳して、日本語の答えを導き、

再び脳内翻訳して、発音・抑揚を気をつけながら英語を発する、

なんて作業は到底プロフェッショナルな仕事の現場では通用しないわけで、

結局、自分の思考回路が完全に英語モードにならない限り、

とっさの一言なんて言うまでもなく、まっとうな意見を発することは難しい。


結局言葉を操れるかどうかって、この部分にかかっていて、

このスイッチングに苦労している間は、

会話の内容は理解していても、何も意見をできず、

結果、周囲からは単に「何も意見のない人」と見なされます。

欧米社会には人の考えを察するという、コミュニケーション手段はないのです。

(あえてやや極端な言い方をしてますが、少なくとも日本的な「思いやり」文化はありません)



で、年長者を勝手にライバル視して、

負けるものかと奮起する癖のある僕は、

かなり込み入った精神状況を組み立てました。


その1. そもそもどんな話題であれ、とにかく口をはさみたい。

     もちろん、会話の流れ上意味のないことを言うのではなく、

     できれば知性あふれることを言えればいいなぁ。


その2. 英語が母語ではないが自分よりよく英語をしゃべる人を語学のライバルと見立てる。

     彼らから吸収できるものをできる限り早く手にして、あわよくば追い越し、

     新たなライバルを見つけるべし。


こう書くと大して複雑ではないですが、

日々の会話の話題は果てしなく幅広く、

さまざまな母国語を持つ人たちの英語はそれぞれに癖があって、

見習うところ、見習ってはいけないところの判断も同時にしながらの会話って、

かなり脳体力を使うものです。


最近は少しずつ言葉も達者になってきて、

少なくとも年長者だらけの状況でも

「こいつは若いし大した意見も持ってない」

という見られ方は少なくともされなくなってます。


ただ、まだまだ表現の幅が少なくて、

小学生のような英語をしゃべっているのが実情。

冗談をいうにも小学生的なデリカシーにかける冗談をいいかけて、

寸前のところで止めるようなこともしばしば。

日本語でなら絶対にしない失敗も英語でなら簡単に冒してしまうのです。

でも生まれたての赤ちゃんのレベルから

半年ちょいで小学生になったのだとすると、

ペースは悪くないかなと、最近ようやく客観的に少しだけ満足感を得るに至っています。





つまり長々と書いて何が言いたいかって、

自分の属するコミュニティの中で最年少であると同時に、

自分の日常の言葉が足りないせいで、

25歳になっても25歳の自分を実感するのはなかなか難しいということ。

まだまだ子供なのです。


面白いのが、言葉が足りないと、

自分の精神年齢もその言葉の足りなさ程度に思えてくる部分。

これが言葉の不自由な環境での試練なのですね。

仮に日本語をある日突然すっかり忘れてしまったら、

本格的に人格退化が起きると確信中なのです。


いつもブログでこういろいろ書いてるのも、

自分の思考を言葉で具体化しないとすっきりしないからなのですよ。

決して暇でしょうがないわけではありません。


ということで、最後に25歳の目標。

・心身ともに健康に過ごす。

・もちろんサクセスフルな研究・仕事の遂行

・25歳の間に英語精神年齢高校生くらいになるべし



ということで、

心の洗濯終了。

こんな心の膿を最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。