「武蔵! 遅参とは何事か! 臆したか……」




「小次郎、敗れたり――」






※この記事は観劇とは関係ありません


10月4日。
本州最南端。
九州最北端。
関門海峡方面。

山口県が下関、福岡県が門司港。
たびたび歴史の表舞台になる地域です。

古いものだと
平安末期は平家VS源氏による壇ノ浦の戦いが行われました。
この戦いで平家は滅亡しましたねー。

最近だと
安倍元総理が下関に縁があり
下関駅から数分のところに事務所を構えています。


今回は江戸時代初期ならびに昭和~平成期に舞台になった
関門海峡の真ん中に浮かぶ無人島・巌流島について取り上げていきます。



■行き方

この日、下関にいた私は唐戸市場へ向かいました。
下関駅から歩くと25分くらい掛かりました。
海峡メッセや倉庫街を潮風にあたりながら行くのもいいと思いますが
時間節約したい場合はバスで向かった方がいいかと。

巌流島に行くには
関門汽船が運営する連絡船で向かうしかありません。
泳いでいく人とかいるんですかね?

通常(900円)で往復で行くよりも

こちら下関⇔巌流島、下関⇔門司港のトライアングルパス(1000円)を活用した方が安く済みます。
門司港の方は門司港駅数分で着きますので。
なぜか門司港⇔巌流島は行けないので、一回下関を経由する必要あり。

パス購入後

船着き場からフェリーに乗船。

私は2階客席で船がゆらゆら揺れてる中、
関門大橋や門司港方面を眺めつつ到着を待ちましたよー。
風が強かったー!


■巌流島

10分ほどで目的地に着きます。
所在としては山口県らしい。

滞在時間としては
出航の関係で40分ほどとなります。
まあ、40分くらいで島全体回れると思いますよ。

正式名称は船島
船の形をしていたためかな?

発着場からすぐのところに舟島神社があったり
関門大橋が先に見える上記画像のようなフォトスポット、
後述の人物縁の祠などあります。

そして巌流島といえば決闘の地!
宮本 武蔵VS佐々木 小次郎の像
武蔵が遅参してきた際に乗ったのをモデルとした船があります。


二刀流の武蔵、秘剣を使う小次郎の戦い。
ロマンがありますね。
それぞれ軽く触れていきます。


■宮本 武蔵

吉川 英治氏の小説や大河ドラマでも取り上げられています。

二天一流を開いた二刀流の剣豪です。
両手に刀を下段で構えていたという。

無敗の剣豪と語られています。
一説には左利きだったといわれていて
それが相手に有利に働いたのでは?
天才に左利きって多いですよね~。

無敗神話に疑問符が出るところが多々あったりします。
京都・吉岡一門との戦いも敗北説も存在します。

養子の主税(ちから)がいいように書いたのか?
真実は不明。



■佐々木 小次郎

通称・巌流
ここでは一般的な佐々木 小次郎で書いていきますが
佐々木 巌流だったり、巌流 小次郎だったり
まったく違う名称で呼ばれていたりもします。

『Fate』シリーズではアサシンとなっていて
架空の人物・名を借りた剣豪として登場していたりも!
また、『バガボンド』では障害持ちの天才剣士として描かれています。

中条流・冨田 勢源もしくは鐘巻 自斎から剣技を学んだという。
物干し竿と呼ばれる長刀を愛用し
秘剣・燕返しが小次郎の編み出した技で有名ですね。

とにかく謎が多い剣豪です。

決闘前には
小倉城主・細川 忠利に仕えていたらしい。
立場は剣術指南役。

ちなみにこの細川一族の子孫は
かの有名な細川 護熙氏だったりします。
近衛氏の血脈もあって血筋がとにかくすごい人!


■巌流島の決闘

時は1612年。
江戸時代初頭。

小次郎は船島に一人先に到着しました。
が、待てども待てども武蔵は来ません。

業を煮やしてい怒りに暮れる小次郎。
遅延は武蔵の策だったのです。


約束の時間からだいぶ経過した後、
武蔵が一人船島に到着。

着くやいなや、小次郎は抜刀。


「武蔵! 遅参とは何事か! 臆したか……」




「小次郎、敗れたり――」


と武蔵が続けざまに



「お主は鞘を捨てた。勝つ者が何故鞘を捨てるか」


と吐き捨てます。
武蔵は木刀で挑む。

始まりに時間が掛かった勝負は一瞬でついたという。
勝者は武蔵でした。

敗者である小次郎を称え、
かの地は巌流島と呼ばれるようになったとされています――。













と、よく知られてるのはこんな感じですね。
一方で、こういう説もあります。


一つ、
小次郎は『十八才』で決闘に挑んだというが
勢源から学んだのであれば高齢者となります。
もしかしたら十を誤字って七八ではないかと。
当時、アラサーだった武蔵が老いぼれの小次郎を叩き潰すという絵面は想像したくないですね……。

次に、小次郎は1人で挑んだが
対して、武蔵は弟子を引き連れてきた可能性があるらしい。

決戦後、息があった小次郎を弟子たちが撲殺した……というなんともいえない結末も。

真実は不明です。

個人的には
小次郎が鐘巻 自斎門下として18~30くらいの年で
正々堂々一対一で挑んだのであれば理想なんですけどね。



■巌流島の決闘(昭和)

アントニオ猪木氏が上記の武蔵VS小次郎の大激闘から構想を練ったといいます。
対戦相手はマサ齋藤

場所はまさに巌流島となって
ルールなし・無観客試合で行う流れとなりました。
実際、大観衆を招くのには適さない地だと思うので
無観客は妥当ですね。

山口なので名前にちなんで長州力もいたら面白かったかもしれませんね。

ちょうど35年前。
1987年10月4日。
同地にて決闘が行われることとなります。

猪木はなかなか姿を現さず
遅れてマサの前に現れたという。

武蔵=アントニオ猪木
小次郎=マサ齋藤


のような構図か。

最終的には猪木が勝利を収めました。


尺の関係で端折りますが

棋界でも巌流島の戦いが行われており
記念の石碑があります。



■感想

第一に、ここを訪れたのは
やはりアントニオ猪木氏縁の地で
なおかつ決闘が行われた日だったから
です。
ちょうどベストタイミングに行くことができてよかったです。
こういう機会ではないとなかなか行けませんので。

歴史好きとしては
剣豪同士の激闘の地の空気を吸えたことがいいですね。
像や船を見ると当時のその瞬間を観戦したくなるものです。
まあ、無理なんですけど。

武蔵もしくは小次郎って演目で扱われていたりするのかな?
と疑問に思ったり。



お読みいただきありがとうございました。