日本にいる友よ、あなたに会いたい
「いろんな思い出があった。小さな、本当にたいしたことない思い出ばかりだが、今でも鮮明に覚えている。幼きころの感動と記憶は、ずっと色あせずに、私の心の中にある」
中国の重慶に住む王清華(子供のころの幼名は、王小狗)さんは、子どものころの友人――日本にいる“青木さん”一家と“山下英雄さん”一家のご親族を探しています。
■一緒にいた時間:1952年~1954年
■場所:中国重慶渝中区解放東路双巷子八号院子
(直轄になる前:四川省重慶市市中区(下半城)解放東路双巷子八号)
●一緒に住んでいた解放東路八号院●
50年代初期、重慶市中区解放東路のなかで、諸奇門に近い場所。
ここに、“双巷子”と呼ばれる、長江に向かう路地がある。その長さは、二百メートルにも満たない。
この路地に十一個の大きさが異なるが院子建っており、もっとも大きな家には七十から八十世帯の家族が住んでいた。彼らはみんな、長江航運管理局と重慶港務局の職員とその家族だ。
1952年から1954年にかけて、日本から来た“青木さん”、“山田英雄さん”のご家族と私の家族は、この双巷子の八号院にある“新房子”のなかに住んでいた。
私たちが住んでいた八号院に入ると、まず、三階建てと二階建ての二棟の木造の中国式四合大院(もと中薬大商号)がある。そこは“旧房子”と呼ばれており、約二十世帯あまりの家族が住んでた。
旧房子を通り過ぎるように、十メートルほどのお堂が建っている。“吃飯堂”とも呼ばれたこのお堂から、十歩ほどの石階段を通って、後院に向かうと、さらに大小二棟の建物がある。
51年に新しく建てられた四階建ての青レンガの建物が“新房子”。ここに、日本の二世帯を含む、三十八世帯の人々が住んでいたのだ。この“新房子”の後ろには“高坡坡”と呼ばれる場所があり、何世帯かが住んでいた、二階建ての小さな建物が建っている。
“新房子”のひとつの部屋の大きさは十五から十六平米程度。各階に十世帯の家族が住んでおり、通路の一番奥が共用の大きな厨房だ。そのとなりにある二件の男女別のトイレと浴室も共用だった。この“新房子”の一階、二階、三階にはそれぞれ十世帯住んでいた。
私の子供のころの幼名は“王小狗”。母は八号院の人々に“王大妈”と呼ばれてた。当時の院に住む子供のなかで、私は目立つほうだった。七歳か八歳ぐらいだった私は、そこに住む中国の子供のなかで年齢が大きいもののなかの一人であり、もっともイタズラ好きな子供だったからだ。
●記憶のなかの“青木さん”と“山下さん”●
記憶のなかの“青木さん”は四十歳ぐらいの方で、重慶長航のエンジニアをしていた。背は高くなく、誠実で、四角な顔のヒゲはいつもきれいに剃ってあり、背広と革靴を履き、礼儀正しい人だった。北方のなまりがある中国語が特徴で、人を見ると、いつも先に挨拶をする人だ。私たちのような子供にあうと、たまに紙をちぎって鳥や船、飛行機などを折ってくれた。そのため、“新房子”の子供たちはこの“青木”おじさんが大好きだったよ。
“青木”おばさんは彼より背が高く、きれいで、あか抜けた、全能な奥さんだった。“青木さん”の家には、確か四人の子供がいたはずだ。一番上と二番目は当時の四一中学に通っていた。三番目は“青木震朗”という名前の男の子だ。私より一歳か二歳年上で、私より背が高かった。四番目は私のひとつ年下の女の子。丸顔のおかっぱ頭で、少しだけわがままな子だった。私をはじめとする男の子はちょっかいを出すのをためらっていたよ。
当時の“山下英雄”さんも四十歳ぐらい。職業は水夫長だ。背は高くなく、痩せ型で小顔、肌は日に焼けていて、精悍な人だった。そうそう、いつも帽子をかぶっていたよ。確か、彼には二、三人の子供がいたはずだ。一番上は私と同じ年の男の子で、二人でよく相撲をしたものだ。
●ガキ大将“青木震朗”と遊んだ日々●
“青木震朗”は私たちのガキ大将だった。毎日夕飯が済むと、男の子たちで“新房子”の下で集まる。そこには、古びた石造りの浴槽があって、みんなはそのそばでおしゃべりをしたり、イタズラをしたりして、遊んだ。暗くなると、“青木震朗”は私たちを二組に分け、“ケイドロ”のゲームをするんだ。夏休みや冬休みになると、中学校に通う“青木震朗”の兄もやってきて、いろんな遊びを教えてくれた。
毎日、九時くらいになるまで遊んだよ。 そのため、子供たちのお母さんがやってきて、大きな声で自分の子を呼ぶんだ。私もよく「王小狗、もう暗いよ、はやく帰って寝なさい」と言われたものだ。もちろん、みんなは遊びたい盛りだから、帰りたくなかったさ。でも、しょうがない。母親に名前(大抵は幼名)を呼ばれながら、いやいや帰っていったよ。
私たちの世代では、子供のころの友達の幼名しか覚えていない場合が多い。あまり呼ばない本名はあまり覚えていないんだ。私が良く呼ばれたのも、“王小狗”という幼名だった。
新しい中国が生まれたばかりの1950年代。重慶“長航局”と“港務局”はもっともはやくできた国営企業のひとつだ。そこの職員はみんな“海員”と呼ばれていた。あのころの国営企業は配給制を執行していて、職員やその家族に対する待遇もよかった。家庭をもった長航職員なら、家族の数にかかわず、一世帯につき十数平米の職員宿舎を一軒もらうことができた。
“長航局”は特に日本人に対して配慮していた。日本人の職員なら、十数平米の職員宿舎を一人につき二軒ももらうことができた。これは当時において、非常にいい住居環境だったよ。
また、これもはっきりと覚えている。“長航局”で勤めていた日本人職員の給料も中国人職員の二倍だったのさ。記憶のなかの“青木”家、“山下”家の子供はいつも私たちよりいい服を着ていたし、ポケットのなかの小遣いも私たちより多かったね。
●突如にやってきた別れ●
1954年のある日。八号院に住む私たち――日本と中国の子供たちの楽しい日々が終わりを迎えた。
大人たちの話によると、こういう事情だそうだ。中国とアメリカ政府が朝鮮戦争での捕虜を交換することを商議していた場で、アメリカ側が中国が多くの日本人を不当滞在させていると指摘した。それを聞いた周恩来総理は、中国に残っているすべての日本人を帰国させることを決めた。もちろん、重慶の“長航”で働いている日本人もその帰国方針に従うことになったのだ。
私は、当時、大人たちが「日本は戦後まもないから、貧しく、生活もきびしい。院に住む日本人の家族たちも帰りたくないと嘆いていた」と言っていたのを覚えている。
彼らが去る日が近くなると、日本の子らはあまり外で遊ばなくなった。一緒に住んでいる友達にあっても、うつむいて話さなくなった。私は当時の子供たちのなかでの最年長のひとり。“青木”、“山下”の子らとはもっとも遊んだ、親友だった。だから、別れのときのことは、今でも忘れていない。あの日、彼らは子供向けの本やビー玉、そして、ひとつ縫った跡があるサッカーボールなど、たくさんのもの私にくれた。
そして、日本の友人の家族が八号院に住む大人、子供と別れたときのことも、私は覚えている。あのとき、双巷子の公道のそばに、二両のアメリカ式の中型ジープが止まっていた。車に乗るときまで、“青木”のおばさんと“山下”おばさん、そして私の母たちが手をとって、泣きながら別れを惜しんだ。日本の友達らはみんなジープの手すりのによって、ただ、見送りに来た私たち中国の子供を見つめていた。
あのとき、私たちは幼いすぎた。別れに涙もなく、言葉もでなかった。ただ、心が空っぽになったような気がした。私たちはずっと、ジープが見えなくなるまで見送った。一緒にいた大人が家に帰り、子供たちが帰っても、私はまだ公道のそばに立っていた。ずっと、呆けていた。
その後の日々のなかで、私は良く夢を見た。日本の友達と一緒に遊んでいる。そんな夢を見続けてきた。
今、私はもう60歳を過ぎた。でも、日本の歌を聞くたびに、子供のころに一緒に遊んだ日本の友人らの姿が鮮明に浮かぶ。あの日、あのときの思い出はずっと心のなかにある。それは、生涯、色あせないものだ。
●切に、再会を願う!●
やがて、ときが流れ、いつも間にか1990年台の後半になった。その日、私の母はうれしい知らせを教えてくれた。
八号院の昔なじみの鄭おばさんから母に当てた手紙にこう書かれてあった。当時住んでいた、日本の男の子(どの家のだれかは書かれていなかった)が八号院をたずねて来たのだ、と。なんでも、北京に出張に来たおりに、わざわざ時間をつくって飛行機で重慶まで来たそうだ。
彼は長い間、庭に佇んで、子供のころの思い出を確かめたという。また、中国語で、「何十年も過ぎたのに、八号院は昔のままだ」、と何度も、感慨深く言ったそうだ。彼は記念として八号院の古い写真、鄭おばさんたちと一緒に映った写真などをたくさんとり、わざわざ八号院に住んでいた昔なじみの老人たちに私(王小狗)のことを尋ねてくれた。
だが、この友人は急用のため、その日のうちに北京に帰ってしまった。
私は、彼に会うことができなかった。非常に残念だが、それと同時に心のなかで、つよい思いがよみがえった。日本の友達に、“青木”と“山下”に会いたい!
彼らと別れてから、もう六十年になる。生きているとしたら……一番小さいのも六十にはなっているだろうから、もう七十歳を過ぎているはずだ。50年代のはじめ、日本の友達と過ごした忘れがたい日々を思い出すたびに、言葉では伝えがたい思いが込みあがってくる。
“青木”、“山下”家の子供たち、ありし日の友よ。どこにいる?元気か?楽しい毎日を送っているか?
あなたたちにひとつ、知らせたいことがある。ここ数年、重慶は都市改革が進み、下半城の古い家が取り壊しになることが決まった。あの双巷子と八号院が、もう重慶からなくなってしまうんだ。この思い出がつまった場所が消える前に、どうか見に来てくれたら、と思う。
八号院が、あの日々を一緒に過ごした中国と日本の仲間たちの記憶のなかで、永遠に残り続けていることを、私は信じている。あなたたちが、重慶に来ることを、切に願う!
中国重慶 王清華(幼名:王小狗)
電話:13708321542
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