「学校教育」と「大学入試」の違い | Bein' aware of wisdom

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高認取って大学受験した人のブログ

僕は高1の頃の担任の先生に、以下のような話をされたことがあります。

「君たちは、所謂"ゆとり世代"と言われる。だが、勘違いしないでほしいのは、大学入試は一切易しくなっていないということだ。君たちにとって一番大変なのは、学校で学ぶレベルは落ちたのに、大学入試では昔と同じレベルの学力を問われるということ。つまり、学校での勉強と大学入試とのレベル差が昔よりはるかに開いてしまったということだ。」

とても興味深いものであり、自分でも昔の大学の過去問を調べてみました。
すると、浮かびあがってきたのは、英語や国語などは、昔に比べて難しくなってないどころか、むしろ今よりはるかに簡単なものばかりだということ。

もちろん数学などはどの大学でも軒並み易化してはいますが、昔の数学の問題も、驚くほど難しいものは少なく感じられました。
僕は大人達から、「昔の入試レベルは今より遥かに難しい」と教え込まれてきたものですから、初めて昔の問題を見た時、思ったより難しい問題ばかりではないことに、驚きを感じました。
ただ、大人達の判断が間違っていたとも思いません。
では、昔と何が違うか、というと、「学校以外の教育機関の充実性」だと思います。

昔は今と違って、至れり尽くせり解説してくれるような予備校は地方には無かったし、昭和からある駿台予備校なども、大袈裟に言ってしまえば「官僚志望の東大受験生のための予備校」といった具合でいわば都心部のエリートのためのものでした。
参考書だって今みたいに講義型のものはなく、むしろ「副教科書」に近い性質であったでしょう。
ですから、地方の受験生はもちろん、お金のない受験生などは、受験対策はもっぱら教科書でするしか無かったということです。

その中でのあの問題ですから、今に比べて体感難易度ははるかに高いのではないか、と思います。
大人達の評価が決して間違っていないというのは、ここにあります。

今は予備校へ行けば徹底対策され、参考書でも入試の1から100までを叩き込まれる時代ですから、いわば大学入試側も、「イジワルな問題」を出さないと厳しい時代になってると言えるでしょう。
要するに、予備校・参考書と大学入試側とで互いに切磋琢磨(?)しながらレベルを上げてきたということ。
そして、それに対置される形で取り残されたが「学校教育」だと僕は思います。

もちろん、学校教育の目的は、ただ単にペーパーテストで大学に合格させることだけではなく、綺麗な体で言えば、人間性・社会性のある生徒を育成することです。
ですから、大学入試以外にも沢山の委託業務がある学校教育が上の二者に遅れをとるのはある意味では予定されることであり、今の学校教育制度の現状がなべて癌そのものだ、とも思いません。

ただ、この現状は、ずばり「知的格差」を推し進めると言えるのではないでしょうか。
つまり、学校教育がゆとり化しても、大学入試側がゆとり化しない場合、学校教育にのみ頼る人間と、一定レベル以上の大学入試を経験した人間とでは、同じ「教育」を土台に敷いたとしても、昔以上に格差を生むのは当然であります。

一般に格差というのは、少数の富裕層・エリート層と、多数の貧困層・下流層とに分かれますから、当然多数派からの少数派へのルサンチマン---金や学力があったって、幸せとは限らないという怨恨感情---から、また学校教育へのしわ寄せが起こり、さらにレベルの差が開くということにもなりかねません。

事実、ゆとり前に寄せられた「大学入試の過熱すぎる競争」への批判の受け皿は、大学入試そのものではなく、学校教育だったのですから。
これは多くの人が、学校教育の易化そのものが加熱した大学入試競争の潤滑油になると信じて疑わなかったということ。
しかし現実は違った---学校教育だけが易化する体をとって、大学入試は実はそのまま残ってる形なのです。
ただ、これが事実上表面化していないのは、塾・予備校や参考書を執筆する講師陣が尽力し、その差を見えにくくしているから。
僕はこう思えてなりません。

要するに、多くの人は、「教育制度」を論じる時に、専ら学校教育のみを視点に据えるか、ないし大学入試を学校教育論に吸収する形で議論しますから、昨今のような乖離も甚だしいおかしな状況になるのだと思います。

最初から申し上げてきたように、僕は教育論を語る時は「学校教育」と「大学入試」とは全く別のものとして考えなければならないという風に思っています。
「教育」という抽象論を語ることは誰でも容易にできますが、「学校教育」と「大学入試」の区別が出来なければ、根本的に日本の学力を動かすことはできない。

僕は、そう思います。