滅多打ち | Bein' aware of wisdom

Bein' aware of wisdom

高認取って大学受験した人のブログ

今日は週1の国語の指導がありました。

で、70~80字程度の記述を書いてきてねという程度の課題を貰っていて、自分なりに書いてきました。

一応自分なりに根拠を見つけた"つもり"でした。



結果、先生は僕の解答を数行読んだ瞬間 



「本当に文章読んだ?コレ。」




一蹴されました。


自分では一生懸命書いたのに。

それで「まぁ論理関係や対比はきちんと読み取れてるのは素晴らしい」なんて言われるかな~とかアホみたいな期待してた自分が恥ずかしい。




その後もボロッボロの滅多打ちにされ、「そんなんじゃ上がんないよ?」と言われて帰ってきました。

正直あまり気分が良くはありませんでした。


でも、「じゃぁ何でここにこういう事を書いたの?」「これはどういうつもりで解答に入れたの?」

と聞かれると、言葉に詰まる自分。

気持ち悪いぐらい「何も答えられない」「どうしてその言葉を入れようと思ったか、意図が全くない」のです。


文章を読んで、「こんな話」というのは分かるけど、その中に渦巻く文章を全く理解できていなかった。

「こうすれば部分点ぐらいもらえるだろうな~」っていう生半可な気持ちでいました。

「まぁ記述なんて誰も書けないだろ。ちょっと部分点貰えればいいでしょ」っていう生半可な程度で二次に挑もうとしていました。



とにかく理解した"つもり"で勉強してきた、自分に本当に腹が立ちます。



97/200をとった理由が分かる気がします。



国語で高得点をとるような人と、僕とでは、現代文に対する取り組み方が根本的に違うのだと思いました。

僕は「点さえとれればいい。点がとれる内容をまとめればいい。」でした。

でも、やはり高得点をとれるような人は「他者に理解してもらえるように解答に心を込めよう」と。

先生はそうおっしゃっていました。


現に、先生は「高得点をとるような子は、採点者に読む気にさせてくれる」とおっしゃっています。

つまり、「他者に理解してもらいたい」という熱意が感じられるのだといいます。



僕には、文章の"大事そうな"言葉を矢継ぎ早に並べて、解答がまずいものにならないようにするという"逃げ"の姿勢があったと思います。



このままでは、大学受験を超えて、レポートや論文を書いたりするような際にも、非常に苦しむだろう。

そのためには、今、絶望的な現実としっかり向き合って、今まで構築してきたfragileな勉強をスクラップして、もう一度いちから取り組みかたを変えなければならないと思いました。