
遠い昔の一時期、アラン・シリトーの本を読み耽っていた。
1950年代にデビューしたイギリスの作家たち、「Angry Young Men(怒れる若者たち)」の一人とされている。
と言いながら、今回は文学史や書評についての話ではない。
2020年開催予定の東京オリンピックの話だ。
前の記事でも少し触れたが、オリンピック開催地が決定する夜のテレビ番組をいくつか観た。
確か、どの局も一線を退いた「元アスリート」たちがゲストとして出演していた。
当然だが、誰一人として原発事故、汚染水の問題に触れることもなく、東京での開催を熱望する風だった。
確かに、ほとんどのアスリートたちの最終目標はオリンピックなのだろう。それは分かる。
分かるが、多くの人々が震災被災地の復興、原発事故の対処、被災者の救済が何よりも優先されるべきことで、オリンピックじゃないだろうと考えているこの状況で、ハイになって何かコメントを得々と喋っている「元アスリート」の顔を眺めていると、薄気味悪さを感じずにはいられなかった。
後味の悪さを拭い去りたかった。
だからおれはシリトーを思い出した。
もちろん、「長距離走者の孤独」だ。
詳しい内容は忘れたが、主人公の「おれ」は強盗とか何かの罪で感化院に収容され、そこで長距離走の素質を見出される。
感化院の院長は「おれ」を刑期の短縮だったかそんな風な何かと引き換えに感化院対抗のクロスカントリー大会への出場、そして優勝を命じる。
もちろん院長である自分の名声のためにだ。
やがて大会の日、「おれ」はぶっちぎりのトップを走る。
そして、ゴール目前で突如、走るのをやめた…というような話だった。
だからと言って、別にすべてのアスリートに権力に対する反抗や棄権を求めているのではない。
そんなことを他人に求めても仕方ない。
ただ、この「長距離走者の孤独」の主人公と、テレビに出た「元アスリート」たちは違う。
架空の人物と実在の人物ということではない。
それは個人であるか、ないかということだ。
だからこそ「長距離走者の孤独」というタイトルなのだ。
あの日、テレビに出ていた「元アスリート」たちはもちろん「孤独」には見えなかった。
テレビには「個人」は存在しない。
小説どころではない。
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