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ある話を耳にした。
40代の彼女は子供たちが小さい頃から進んで幼稚園や学校のあらゆる行事に参加し、他の母親たちができればしたくない役員の仕事も引き受けいわゆるママ友の中でも目立つ存在だった。
子供たちがある程度手がかからなくなると、パートの仕事を始めるようになった。夫は「堅い」ところに勤務していた。
そんな彼女がある日、忽然と姿を消した。
パートの勤め先から自宅に連絡が入って、その事実が判明したらしい。
噂はゆっくりと、しかし確実に広がっていった。
どうも恋人をつくって出奔したらしい…
いや、実は旦那からDVを受けていたらしい…
もう遠くに行ってしまっているはずだ…
残された子供たちはどうするのだろう…
責任感がなさ過ぎる…
そう言えば彼女は「奔放」な性格だった…
そのうち帰ってくるだろう…
逃げた先での生活はどうするつもりなのか…
もちろん本当の理由は当人しか分からないが、「駆け落ち」だとすれば、それを聞いた多くの人は「大賛成!」という風には思えないだろう。(中には、思う人もいるかもしれないが)
しかし、DVの被害者だったとすると、どうだろう。最近のニュースなどを観ている人なら「それが正解だろう」と思うのではないだろうか。何年もかけて「逃亡先」を見つけ出し、危害を加えるような事件も耳に新しい。
この話を聞いたとき、最初におれが思い浮かべたのは、彼女の行動の是非よりもまず、「ハードルが下がりつつある」ということだった。
それまでの生活を捨て、家を出ていくということはそれなりの「ハードル」がある。それが女性となると、難易度はさらに高い、はずだと思われていた。昭和時代ならそれこそ命懸けの大仕事であり、大抵は「枯れすすき」となり果てるというイメージが共有されていたのではないか。
そういうイメージとしてのハードルが低くなっている、そう感じた。
「困難」だと思っていたことが、実はそれほどでもなかった、あるいは、ハードルはそもそもなかった、というようなことが徐々に増えてきているのではないかと感じたのだ。
乱暴に言えば、「気づきの時代」ということだ。
もちろん、「気づき」がなかった時代などないのだが、気づきの速度というか範囲というか規模というか、人口というか、そんなものが飛躍的に拡大し共有されているということだ。ネットの普及がそれらに多大な影響を与えているのは言うまでもない。
そして、今や千里を走るのは悪事だけではない。あらゆる情報が一瞬にして駆け巡る。
(これは、駆け巡っているということが認識できるようになったということだ。すべての情報は発生した瞬間に駆け巡るのだと個人的には思っている。それこそ、気づくか気づかないかの違いに過ぎない。)
と、まあそんなわけで、今や「気づきの時代」である。
で、気づきとは何かということだが、簡単に言うと、思い込みが消えるということだ。思い込みが消えるというのは、思い込む主体が消失するいうことだ。
そしてこの「消失」は確実に自由の感覚をもたらす。
おれはかつて、お年玉付き年賀状の5等だか何かの景品の「切手シート」は切手収集のためのあのノートみたいなやつだと30年くらい思い込んでいたが、それが切手そのものだと知ったときの衝撃的な感覚を忘れられない。というのは誇張で、忘れていたが、今、思い出した。
まあそこでおれが感じたのは、いずれにせよ、「消失」であった。そしておれは切手シートの呪縛から永遠に解き放たれたのだ。
で、「気づきの時代」である。そうした時代においては相対的にあらゆるハードルが低くなっていく。
それはいいことでもあり、同時に困ったことでもある。呪縛が緩む…倫理も溶ける…自由度が増す…タガが外れる…解放が起こる…壁が崩れる…流出する…流入する…こうしたことが同時に起こる。
おれがこうした流れを初めてボンヤリと意識したのは、ベルリンの壁が崩壊したときの映像を観たときだった。当時、世界の流れなど何の関心もなかったおれはただ、「へー」と思っただけだったが、狂喜する群衆の映像は心のどこかにくっきりと記録された。
余談になるが、あの頃、よく聞いたのは「自分が生きているうちにベルリンの壁がなくなるなんて思わなかった」というのがあったが、それは嘘だと思ったのを覚えている。ほとんどの日本人は、ベルリンの壁のことなど気にも留めていなかったはずだ。もちろんおれもその一人だ。
というわけで、強引に結び付けると、事の善悪に関わらず、人々の自由を制限すると同時に保護する壁は時代の変遷に伴い、どんどん低くなっていき、その気になれば飛び越えることのできるハードルへと「縮小」しているということだ。
これが「ポップ化」である。
これは、「フラット化」と似たようなものだが、個人的には、「ポップ化」の方がしっくりくる気がする。元気があってよさげじゃないですか。
「ポップ化」のわかりやすい例は、CMに見られる。
▲*ポップと商売は相性がいい。
まあそれも過渡的なものだと思うが。ポップの恩恵をたっぷり味わった「商売」自体も遠からずポップ化していくだろうし、そうなりつつあると思う。それゆえのブラック企業への糾弾があるのだろう。
で、ポップ化のキーワードとしては、「よく考えたら~」というのがわかりやすいのではないだろうか。
「よく考えたら、なんでおれたちはこんな壁に隔てられてるんだ?」
「よく考えたら、なんでおれたちはこんなにこき使われてるんだ?」
「よく考えたら、なんでおれたちは毎日満員電車に揺られてるんだ?」
「よく考えたら、なんでおれたちは毎日引きこもってるんだ?」
「よく考えたら、なんでおれはこんな記事を書いてるんだ?」…等々。
で、よく考えたら、そうでもなかったというようなことが次々に明るみに出るわけで、こうした流れは、かなりショートカットするならば、ある人々にとっては自由の感覚をもたらすし、またある人々にとっては、不快、恐怖の感覚をもたらすことになるだろう。
で、結局のところ、「己次第」だという身も蓋もない地点にたどり着く。これは危険な考えであるということは承知しているが、否応なくポップ化のプロセスは確実に進行していくだろう。
もちろん当面の進行を遅らせることは可能だろうが、ポップ化そのものを食い止めることはおそらくできないだろうと思う。
…冒頭のエピソードの彼女のその後の消息は知る由もない。ただ、おれは知人というほどでもないその彼女が本当に自由を実感しているのかということが気になるばかりだ。