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これで4冊目となるホ・オポノポノの本を読んだ。
その中で気になった記述を見つけた。
それは、最終章である第7章に書かれてある。
"わたし(ヒューレン博士)は日本人のなかに「安全な食べ物を作る」という大きな役目が出てくるのではないかと思っています"
震災後の現在、この文章を読むと、誰もが放射能汚染を思いつくのではないだろうか。
博士は続いてこう語っている。
"安全な食べ物を作るということは、世界のなかでも日本から始まらなくてはなりません。~実は、日本人に与られている使命の一つに、「何か食べ物で、情報がすべて消去されるものを作り出す」ということがあるのです。日本人はその才能が与えられている唯一の民族なのです。"
これはどういうことなのか。この本は震災前の2009年に出版されている。
つまりその時点では、誰も現在のように放射能で食糧が汚染されるなどと考えもしなかったはずだ。気をつけるとすれば、中国の農薬まみれの食品や狂牛病が発生した当時のアメリカの牛肉くらいしか思いつかなかった2009年に、ヒューレン博士は、日本人は安全な食べ物を作る役目があるのだと言っているのだ。
博士には、現在日本が置かれている苦境がすでに見えていたのか。
いずれにせよ、毎日のように様々な食品から、何ベクレル検出されたという情報が飛び交う日本にこそ、安全な食べ物を作る役目があるという指摘あるいは幻視は相当信憑性があるのではないか。
"この役割は、わたしは日本人しかできないと思っています。"
一介の凡夫に過ぎないおれにはそれをどのようにして作り出すのか想像もつかないが、博士は、我々日本人に期待してくれているようだ。
同時にこのようなことも語っている。
"でも、もし日本人がしなければ、ほかの国の人たちがそれを行うでしょう。フットボールでクォーターバックがクォーターバックの役割をしなかったら、そのゲームからその人をはずすことと同じ理屈です。"
役割をしなかったら、ゲームからはずされるというのだ。
これは何を意味するのだろうか。
もしゲームからはずされたら、日本はどうなるというのだろうか。
…あまりいいことではなさそうだ。
と、なるとやはり日本人は、安全な食べ物を作るという方向に進んだ方がいいのではないかと思う。
もちろんそれは、危険な食べ物を安全だと言うのではなく、本当に安全な食べ物を作るという方向だ。
それでは、食糧生産に直接関わらない大多数の人々は、安全な食べ物を作り出すということにどうコミットしていけばいいだろうか。
4つの言葉で、クリーニングすれば、放射能で汚染された食物も大丈夫だと考える人もいるのかもしれないが、おれはそうは考えない。考えられない。
だとすれば、おれができるのは、正確な放射能検査を行い、公表する企業や生産者の商品を買うこと。「食べて応援」はしないこと。つまり怪しいと思えば、口にしないということだ。買わないということだ。
こうした態度を大多数の人々がとれば、本当に安全な食べ物を作るという気運が高まるのではないかと思う。
いや、今のままで何の問題もない、安全なのだと考える人の方が今後も多数派であり続けるなら、単なる夢想で終わるのかもしれない。
……これから日本はどこに行こうとしているのだろうか。
今のままで安全だと思い込むか、それとも本当に安全な食べ物を作り出すのか。
色んな問いがおれの中で渦巻く。
そして、これは食べ物の話だけに限らないのではないかと感じてもいる。
本の中で、何度も目にした言葉が点滅している。
『すべての責任は100%自分にあるのです』