先日、道場生のお父さんが

 

稽古を見学しました。

 

夏場の体調を気にしての見学の意向で、

 

私も快諾し、稽古を

 

最後までみていただきました。

 

見学をNGとしているわけでは

 

ありませんので、

 

時折、祖父母や親御さんなどが

 

見にいらっしゃいます。

 

ただ、毎回、決まって見学することは

 

推奨していません。

 

その理由はひとつ。

 

みなが自分を確立していくため ―――

 

 

同級生はもちろん低学年や上級生、

 

社会人、壮年者など多世代が

 

ともに稽古を行う場は小さな社会です。

 

このなかで互いの人間関係をつくり、

 

自分が何を発言してどう行動するか。

 

この試行錯誤、

 

考えをめぐらす学びは、

 

どこまでいっても

 

己でするもの。

 

決して親の存在の元ではないのです。

 


かつて

 

このコラムで少し紹介したこともある、

 

私のもう一人の恩師で、

 

当会に入会する前からお世話になっている

 

スポーツアカデミーのスペシャリストの

 

言葉にもある通り。

 

「子どもは見守る親を必ず意識する、

 

 それは多様な学びに影響を及ぼす、

 

 その環境では力がつかない」と。

 

いま、多くのスポーツクラブでは、

 

ガラス張りの施設に見学スペースまで設けて

 

親が見守る姿が日常の光景です。

 

学ぶ者同士が

 

精神的にも互いに切磋琢磨する、

 

自ら考え、

 

自分というものをつくっていく、

 

育んでいくはずである中に

 

厳しくも優しい絶対的な庇護者が

 

付き添っている環境。

 

これには当人の親でも他の親でも、

 

スマートフォンをしているから見ていません、

 

というのも論点にはなりません。

 

 

社会では庇護する存在の手助けが

 

及ぶべくもなく、

 

全体のなかでどのように立ち回り

 

自分の立ち位置をどうつくっていくのか、

 

そこには学んできたものの他には

 

ないのです。

 

 

   

  みな「修養訓」からのスタートです

 

 

当会では指導者からの技術的な教えは、

 

稽古のなかでも全体の一部に過ぎません。

 

受け技や蹴り技とは異なる

 

人としての地力をつける稽古、

 

呼吸法の修練や精神修養、

 

号令を入れ、

 

みなの前で発言をする機会、

 

指揮をとる機会など

 

決して受け身ではない、

 

それぞれ自分が主体となって

 

考え行動することを

 

指導者始め仲間たちに求めています。

 

 

ここに当会の伝統の稽古があります。

 

これをおさえていくことの

 

意義や大切さを改めて感じる日々。

 

今年も残すところ3カ月余り、

 

みなでよい時間としていきたいと

 

思います。

 

 

追記

 

親子、きょうだいで通うこと、

 

それぞれが自己の研鑽、

 

修養の意志を持って仲間とともに

 

この道場に集うことは、

 

家庭の中などの日常では得られないものを受け、

 

よい刺激、影響を

 

互いに及ぼし合うことができるもの。

 

私もよく理解することができます。

 


さて、その先日の稽古の見学で、

 

稽古の際中、

 

座って見ているお父さんの斜め前に

 

私も座り、

 

最近の稽古やその道場生の芯のある様子、

 

言葉などをお伝えしました。

 

そこでふいに思い出したのが

 

恩師もよくこうしていたな、

 

ということ。

 

 

矢部会長は

 

読書家で知識も豊富で話好き、

 

ときどき見学者があると

 

そこに近寄っていっては

 

何かを話しているのを、

 

私も稽古をしながら

 

横目で見ていたものです。

 

見学者をぽつんと一人置き去りにせず、

 

今日という稽古の一員に

 

引き寄せる配慮もあったのでしょう。

 

 

あれから数十年、

 

私もいいトシになってきたためか、

 

同じようなことをしている自分に

 

ふと気がつき、

 

苦笑いのほかはありません。

 

とはいえ、

 

感情が高まること研ぎ澄まされること、

 

気持ちを前面に押し出す言動も

 

いまだ多い自分に、

 

恩師の影響だけではない、

 

何か別の他のものを感じることもある。

 

 

みなで顔を合わせる稽古の

 

一回一回が真剣な場であり、

 

この積み重ねがいまに至る

 

重要な要素の一つとなっていることに

 

まったく疑いはありませんが、

 

それとともに、

 

哲学者とは自ら名乗るものではない

 

という信条で批評家を標榜している

 

哲学者・若松英輔氏の一言。

 

「言葉が訪れる」ということ。

 

理想には程遠い自分ですが、

 

己一人の力でないことも感じている

 

いまの自分は、

 

着実に歩んでいるようにも思います。

 

 

試行錯誤はあるが手応えもある。

 

今日は敬老の日。

 

先人からの教えは

 

確かにこの自分の中にある。

 

ともに在り、つながっている。

 

機会は、

 

私も含め全ての者に開かれているのです。

 

 

以下、2つ再掲します。

 

源泉

 

学びの場をつくる