先日は、三戦、四股立ち、前屈、
それぞれの移動で、
一部の者にはなかなか厳しい稽古で
あったと思う。
特に、約束組手における移動は、
突き手側でさえも、
恐怖心に近い緊張感を持って
一歩を踏み出す者も
少なくなかったに違いない。
指揮者は、
その一歩に大きな力を込めて号令をかける。
その号令に合わせて、
あきらめずに一歩を踏み出し続ける。
よくぞ最後の一本まで通した、と思う。
これらの稽古のあと、ふと、
一歩の大きさを改めて思い直した。
自信とは、言い換えれば、
積み重ねてきたもの、と言えよう。
それは、厚く、広く、
そして深く根を張ったものである。
だからこそ、自分の軸として
確固たるものを持つことができる、
しなやかな強さに
つながるものとなるのであろう。
ここぞという正念場、
いざという時、
全力で臨む時、全神経を集中させる時、
いまその時の自分の背中を押してくれるものは、
これまでの自分である。
成ったこと、
成らなかったことも含めて、
前を見て進んできた
これまでの一歩一歩の道のりは
その人にとり、
ゆるぎのないものである。
それが自信であり、
誤解を恐れずに言えば
努力は人を
決して裏切らないと言える。
自分が取り組んできたこと、
行ってきたことこそが、
自分を前進させるエネルギーとなる。
逆をかえせば、例えば、
一夜漬けでテストのヤマが当たっても、
クイズの懸賞に当たっても、
宝くじに当たったとしても、
その人を輝かせるものにはなり得ない。
5年後、10年後、20年後、
どういう自分になりたいか、
どのような自分を目標とするかで、
いまの考動は、
いまの一歩は決まる。
経済をはじめ
さまざまな面で二極化が進行し、
厳しさが増す世の中、
上を見て下を見て、
もしくは横を見て人と比べるのではなく、
自分の目指すものに向かって、
前を見て進むことこそが、
かけがえのない成長に
つながるのではないだろうか。
極論すれば、
目標は成功という形ではなく、
その先の成長をイメージする ―― 。
そこには、成ったことはもちろん、
成らなかったことさえも、
己の糧とする力が
備わるように思うのである。
積み重ねてきたものを持っている、
という自負を持つことは、
容易ではないが、
誰もが得られるものである。
バブル経済崩壊からしばらくののち以降、
失われた10年、20年と表現されるいま、
若者が夢や希望を持てない時代と言われるが、
そのような世の中をすねても、
背を向けても、ツバを吐いても、
何も変わりはしない。
1つの考動で、
局面が大きく前進することは数多く、
一歩を踏み出せば、
できることは1つや2つではない。
前言を覆す言い方だが、大事なことは、
これまでの道のりの多寡ではない、
とも言える。
これまでの道は
かけがえのないものであるが、
これからの自分の確信にはなり得ない。
どのような立場であっても、
誰にとっても、
いまからの一歩一歩が大事なのである。
それがまたそののちに
〝これまでの自分”となって
いまの自分を形作っていく ―― 。
一歩の大きさを知る者は、
言葉では表現できない何かを、
手応えとして感じとっている者であろう。
きっと強い、と思う。