こんばんは
今日からなぜかペナント・レースが3日間も空いてしまう為、本日は本家にて現在無期限休止中の企画を掲載させていただきます…m(_ _)m
我が英雄列伝
来月4月6日は、我らがホークス・秋山幸二監督の、48回目の誕生日です。
そんな秋山監督の履歴や、個人的な思い出を書き綴りたいと思います。
高校時代は投手として活躍していた秋山監督でしたが、打者としてのセンスに目を付けた西武球団が、1980年オフにドラフト外で獲得、背番号は“コーチみたいな番号”(秋山監督談)71、初年俸は\240万ながら、契約金は¥5000万と、当時高卒ドラフト外入団としては破格でした。
期待通り1年目から二軍で活躍、翌年から背番号が24になり(ちなみに1987年から1)1984年に三塁手としてレギュラー・ポジションを獲得(後に打撃を生かす為に中堅手に転向)すると、以来ライオンズの黄金時代に球界屈指の守備範囲と強肩,盗塁技術,そして長打力を併せ持つ走攻守三拍子揃った万能選手として活躍し、
「メジャー・リーグに1番近い選手」
と言われました。
当時、
イチオシ巨人 ちょっと南海ホークス
ファンだった自分にとって、秋山監督の存在は“目の上のタンコブ”でした…。
伝説の“バック転ホームイン”ですが、まず1986年の日本シリーズにて披露され、翌年の巨人戦でも“憎々し気”に披露しておりました…
転機は1994年に起きました。
西武球団とダイエー球団の間で、秋山監督・渡辺智男投手・内山智之投手←→佐々木誠外野手・村田勝喜投手・橋本武広投手の、3対3トレードが成立しました。
何だか“敵の中の敵”だった秋山監督を応援するのは、妙ぉ~な気分でした…。
地元・九州へ帰る形となった秋山監督、外野フェンスの低い西武球場(現・西武ドーム)から高い福岡ドームに対応させるべく打撃改革に取り組みましたが、その際腰を痛めてしまい、自慢の長打力が落ちてしまいました…
その頃ライオンズは、佐々木選手が切り込み隊長として、橋本投手が左腕ワンポイント・リリーバーとして大活躍、秋山監督をはじめ見返りの選手が揃って不調と在り“トレード失敗”と地団駄を踏んだものです…
それでも、翌年にライオンズから工藤公康投手がFA移籍して来た事も在り、
「秋山選手の、常勝ライオンズでの経験が、いつかホークスに栄光をもたらす」
と信じ、しばらく我慢する事にしました。
黎明期のホークスで新戦力台頭の中、下位打線に名を連ねる形で黒子に徹した後の1999年、当時の王貞治監督から主将に任命され、優勝争いの渦中では1番打者としてリーダーシップを発揮、見事にBクラス常連のホークスをリーグ優勝させ、日本シリーズに於いては自らのバットで最優秀選手賞を獲得する程の大活躍で、日本一に貢献しました。
残念ながら持病の腰痛が悪化し、2002年夏に後進に道を譲る形で引退を発表しますが、10月5日に西武ドームで、6日に福岡ドームにて、2日連続で引退試合が行なわれました。
自分は所沢の試合だけ行きましたが、観客席は超満員、ホークス・ナイン&ファンだけでなく、かつて彼を応援していたライオンズ・ファン、そして“後輩達”に見送られました。
そして翌日、地元の鷹党のコールの中、現役を“卒業”しました…
引退後は解説者、ホークスの二軍監督、総合コーチ、そしてチーフ・コーチを経て、昨シーズンから満を持して監督を務め、前年最下位からのAクラス復帰を果たしました。
最後に、秋山監督の現役時代の主な功績を掲載させていただきます。
本塁打王 1回(1987)
盗塁王 1回(1990)
最多勝利打点 2回(1985、1987)
ベストナイン 8回(1986~1993)
ゴールデングラブ賞 11回(1987~1996、1999)
正力松太郎賞 1回(1991)
日本シリーズMVP 2回(1991、1999)
オールスター出場 18回(1985~2002)
通算試合 2189試合(歴代22位)
通算打率 .2697
通算打数 7997打数(歴代13位)
通算得点 1231得点(歴代11位)
通算安打 2157本(歴代19位)
通算本塁打 437本(歴代13位)
通算打点 1312打点(歴代13位)
通算盗塁 303盗塁(歴代25位)
監督として2年目“今年はやらんといかんばい”の精神で、ホークスを栄光へと導いていただきましょう
さてこの企画、第2弾以降は有るのか…?
本家では1年間放ったらかしちゃったし…m(_ _)m
今日の“平成22”
給食の思い出
~鷹友&アメーバ・ブロガーのあきよちゃんの公開日記への我がコメントより~
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1128037/1149779
それではまた明日

今日からなぜかペナント・レースが3日間も空いてしまう為、本日は本家にて現在無期限休止中の企画を掲載させていただきます…m(_ _)m


来月4月6日は、我らがホークス・秋山幸二監督の、48回目の誕生日です。
そんな秋山監督の履歴や、個人的な思い出を書き綴りたいと思います。
高校時代は投手として活躍していた秋山監督でしたが、打者としてのセンスに目を付けた西武球団が、1980年オフにドラフト外で獲得、背番号は“コーチみたいな番号”(秋山監督談)71、初年俸は\240万ながら、契約金は¥5000万と、当時高卒ドラフト外入団としては破格でした。
期待通り1年目から二軍で活躍、翌年から背番号が24になり(ちなみに1987年から1)1984年に三塁手としてレギュラー・ポジションを獲得(後に打撃を生かす為に中堅手に転向)すると、以来ライオンズの黄金時代に球界屈指の守備範囲と強肩,盗塁技術,そして長打力を併せ持つ走攻守三拍子揃った万能選手として活躍し、
「メジャー・リーグに1番近い選手」
と言われました。
当時、


伝説の“バック転ホームイン”ですが、まず1986年の日本シリーズにて披露され、翌年の巨人戦でも“憎々し気”に披露しておりました…

転機は1994年に起きました。
西武球団とダイエー球団の間で、秋山監督・渡辺智男投手・内山智之投手←→佐々木誠外野手・村田勝喜投手・橋本武広投手の、3対3トレードが成立しました。
何だか“敵の中の敵”だった秋山監督を応援するのは、妙ぉ~な気分でした…。
地元・九州へ帰る形となった秋山監督、外野フェンスの低い西武球場(現・西武ドーム)から高い福岡ドームに対応させるべく打撃改革に取り組みましたが、その際腰を痛めてしまい、自慢の長打力が落ちてしまいました…

その頃ライオンズは、佐々木選手が切り込み隊長として、橋本投手が左腕ワンポイント・リリーバーとして大活躍、秋山監督をはじめ見返りの選手が揃って不調と在り“トレード失敗”と地団駄を踏んだものです…

それでも、翌年にライオンズから工藤公康投手がFA移籍して来た事も在り、
「秋山選手の、常勝ライオンズでの経験が、いつかホークスに栄光をもたらす」
と信じ、しばらく我慢する事にしました。
黎明期のホークスで新戦力台頭の中、下位打線に名を連ねる形で黒子に徹した後の1999年、当時の王貞治監督から主将に任命され、優勝争いの渦中では1番打者としてリーダーシップを発揮、見事にBクラス常連のホークスをリーグ優勝させ、日本シリーズに於いては自らのバットで最優秀選手賞を獲得する程の大活躍で、日本一に貢献しました。
残念ながら持病の腰痛が悪化し、2002年夏に後進に道を譲る形で引退を発表しますが、10月5日に西武ドームで、6日に福岡ドームにて、2日連続で引退試合が行なわれました。
自分は所沢の試合だけ行きましたが、観客席は超満員、ホークス・ナイン&ファンだけでなく、かつて彼を応援していたライオンズ・ファン、そして“後輩達”に見送られました。
そして翌日、地元の鷹党のコールの中、現役を“卒業”しました…

引退後は解説者、ホークスの二軍監督、総合コーチ、そしてチーフ・コーチを経て、昨シーズンから満を持して監督を務め、前年最下位からのAクラス復帰を果たしました。
最後に、秋山監督の現役時代の主な功績を掲載させていただきます。
















監督として2年目“今年はやらんといかんばい”の精神で、ホークスを栄光へと導いていただきましょう

さてこの企画、第2弾以降は有るのか…?
本家では1年間放ったらかしちゃったし…m(_ _)m




http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1128037/1149779
それではまた明日
