平成最後の日、車にはねられそうになったちゃっぴーです




















今朝のゴミ出しで、ビンと缶のゴミを分別カゴに入れて後ろを振り向いた瞬間
目の前を白い車がビュッ
っと


雨で傘をさしていて傘と車がスレッスレ

道幅はだいぶあるのに極度に左寄りすぎ

安全な距離をおいて走ってほしい。
赤い傘さしてるんだからわかるだろ

しかもそこそこのスピードで。
しばらく立ち竦んで去って行く車を見てしまった。怖かったー

場所が線路の目の前で、電車が通過中は車が近づく音が全く聞こえないのです。
複々線で何本も同時に通過してたらさらに。
暴走車による交通事故のニュース、また最近頻繁に耳にします。
この連休中、どなたも事故を起こさない、事故に遭わないようにご注意くださいね









前置きが長くなりました。
間もなく平成もフィナーレ

今日のテレビは各局、天皇陛下の退位関連と平成の世の中の振り返りでしょう。
自然災害や異常気象、未曾有の事件なども多数あったけど
先の大戦後の「戦争の放棄」という憲法の下、戦争のない平和な時代でした。
両陛下におかれましては災害の度に被災地を訪れ、避難所の人々を見舞い励まされる姿が目に焼き付いています。
お二人はいつもニコニコお優しく、常に国民に寄り添ってくださっていたと感じます。
お互いを思いやり尊敬しあい、いつも腕を組んで歩いていらっしゃる姿は素敵でした。
高齢になってからもたくさんのご公務があり、さぞお疲れだったでしょう。
明日からはゆっくりお過ごしいただきたいです。
お疲れさまでした。









私の平成時代は一言で怒涛の時代でした。
特に平成元年は、長男が生まれたり家を建てたりで印象深く心に残っています。
同時に両親と同居、
次男も生まれて家族が増え、子育てと介護で忙しい毎日。
長男が喘息で病院通いや何回もの入院
次男は1歳半で都内の大学病院で外科手術
当時夫は仕事が忙しく、まさに#うちのインティライミ状態だったが
子どもの入退院の度に会社を休んでくれた。
数えきれない両親の入院や通院の付き添い
幼稚園や学校のPTA役員
先の見えない介護…
振り返れば心身たいへんな時期が多かった。
負けるもんか、負けるもんか……
という、ナオトの未来への曲が当時あったならさらに頑張れたと思うけど
「自分よりもっとたいへんな人たちが世の中にたくさんいる」
と自分を励ましながら頑張った。
しかし息つく暇もなく家族のために動き、ストレスにもまみれて体のチェックをしていなかったら
自分が乳がんになってしまった。
子どもたちは中3と中1。
初めて自分の「命」というのを、意識しないわけにいかなかった。
私が入院中の10日間、年とった父が一人で母の介護とみんなの夕飯作りを頑張ってくれて感謝でいっぱいだった。
手術と放射線とホルモン療法にて復活して間もなく15年
今もこうして元気でいられるのは感謝しなくてはならない

その後、母を見送り
大学進学で次男が家を離れ
父は90歳で胃がんの手術、進行性と言われて諦めていたがまたまた復活

その数年後、父が自ら選んで老人ホームに入居した。
母の時の苦労を再びさせるのはかわいそうだと、父が私に忖度したのだと思う。
おかげでナオトの遠征もできるようになり、自由な時間を過ごさせてもらえた。
多くの持病と長年付き合いながら、皆がびっくりするほど長生きした父も去年見送った。
6人住んでいた家族が今は3人。
私にとっては
喜怒哀楽が詰まった、家族と家の歴史であった平成時代でした。
そして
ナオト・インティライミに出会ったことも、私の人生において大きな変化となりました。
平成の前半は何かとたいへんだったけど
だんだん家族の世話も楽になり、ナオトが生き甲斐となった後半
こんなに楽しい日が来るなんて



当時は想像の片隅にもなかった。
ナオト、
令和時代になっても太陽でいて、みんなを明るく照らしてね
