前回、どんな結果も、自分に現れた結果は、すべて自分の蒔いた種、私のやった行為が生み出したもの、とお話しました。
誉められたり、テストでいい点をとったり、お金が儲かったりすると、私たちは、
「よっしゃ!やっぱり日ごろ、がんばってるから、いい結果が来たんだなぁ」
と“善因善果 自因自果”に深くうなずきます。
ところが、怒られたり、テストで悪い点をとったり、お金を盗まれたり、事故に遭ったり、病気になったり、会社をクビになったりしたときは、
「なんでオレがこんな目に!世の中、絶対に間違ってる!どうなってるんだ!」
と、悪い結果を受けた原因が、自分以外にあると思い、不平不満をぶちまけます。
とても“悪因悪果 自因自果”とは思えません。
こういう私も、「自分がこんな目にあったのは、あのせいだ!」と思ったことがたくさんありました。
「蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は必ず生える」の因果の道理に例外はありません。
悪い結果が現れたときの原因は誰のせいなのか、冷静になって、考えてみましょう。
「火の車 造る大工は なけれども 己が造りて 己が乗りゆく」
という昔の歌があります。
“火の車”とは、苦しい状態のことです。
「うちの台所は火の車だ」と言えば、家計が大変苦しいということです。
“造る大工は なけれども”とあるのは、昔、車は大工さんが造っていたから。
ここで言われていることは、「(苦しい状態は)自分以外の誰かが造ったのではありませんよ」ということです。
では、“火の車”は誰が造ったのか?
“己が造りて 己が乗りゆく”。
自分が造って、自分がその車に乗り込んで、 自らが火に焼かれ、苦しむのだよ、と教えられています。
因果の道理に狂いはありません。
すべて自因自果です。
他の誰かが原因で自分に結果が現れた、という他因自果ということは、万に一つ、億に一つもありません。
それでも「正直者は馬鹿を見る」と言うじゃないか、 という人があるかも知れません。
善いことをしても、ひどい目に遭ったり、 悪いことをしても、見つからず、甘い汁を吸っている人も あるのではないか?
そんな思いを抱く人はないでしょうか?
お釈迦さまは、このような疑問に対し、
「蒔いた種は必ず生えるが、生えてくる時期には、前後があるのだよ」
と教えられています。
これを
○ 順現業(じゅんげんごう)
○ 順次業(じゅんじごう)
○ 順後業(じゅんごごう)
と言います。
ちょうど、
“米”のように、種を蒔いた年に、収穫があるものもあれば、
“麦”のように、蒔いた翌年に刈り取るものもあります。
“栗や柿”のように、数年たってようやく実を結ぶものもあるのです。
例えて言えば、
「順現業」は、すぐに結果が現れる“米”のようなもの。
「順次業」は、しばらく経ってから、刈り取る“麦”のようなもの。
「順後業」は、長い間を経て、ようやく結実する“栗や柿”のようなものです。
遅い早いはあっても、縁が来れば、必ず結果が現れることに例外はありません。
原因は厳しく結果を開きます。
他人が見ているとか、いないとかは、因果の鉄則に関係ありませんから、善いことをして損をすることもなければ、悪いことをして得をすることも絶対にありえません。
「自分は一生懸命、善いタネを蒔いているのに、なんで結果が現れないんだろう?」
という人は、 貯金をしていると思えばよいでしょう。
後で、利子がついて、ドーンと大きな結果が返って来るのを待てば良いのです。
善い種を蒔かないと、善い結果は絶対に現れません。
悪い結果を避けたいならば、悪い種まきをしないように努めないといけません。
お釈迦さまの説かれた「幸せの法則」はシンプルかつ厳粛なのです。