少し間があきましたが、お変わりありませんか?
15日(日)は、富山県の高岡駅前にあるウィングウィング高岡という会場で仏教勉強会でした。
高岡駅前は、ちょうどその日、「日本海鍋まつり」という何とも食欲をかきたてるイベントを開催していて、ごったがえしていました。
器を手にして、「フゥフゥ」言いながら食べる参加者を尻目に、私はいつもの部屋に向かったわけです。
この日の勉強会に、仏教の話は初めてといわれる一組のご夫婦が参加しておられました。
退職し、富山の実家に戻ってきた、とのこと。
これまで県外で勤めておられたのでしょう。
家に、お仏壇はあるけれど、何をしていいのか?
お坊さんが来て、お経を読むけど、意味はサッパリ……。
そんなわけで、チラシの案内を見て「参加しよう」と思われたということでした。
お仏壇の真ん中には、仏さまが御安置されています。
これまで、その方は「お釈迦様だと思っていた」といわれました。
でも、浄土真宗で御安置するのは、「阿弥陀仏」という仏様です。
まして、「先祖」ではないんですね。
ここで少し「仏」について。
世の中では、仏=死人が常識になっていて、殺人犯が捕まらないと「これでは仏も浮かばれない」と言ったり、時代劇でも「仏の身元をあらえ」と使っていたりします。
仏教は、「仏」が説いた「教え」ですから、仏が死人のことだとすると、仏教は、死んだ人が説いた教え、というおかしなことになってしまいます。
だから、仏教では、亡くなった方のことを「仏」とは言わないんです。
「仏」の正しい意味は、最高のさとりを開かれた方のこと。
さとりと言ってもピンからキリまで、全部で52の位があります。
その最高のさとりの位を、仏覚(ぶっかく)と言われます。
仏のさとりのことです。
この最高の仏の覚りを開かれた方のことだけを、「仏」とか「仏様」といわれます。
“さとり”というのは、何をさとるのかと言えば「大宇宙の真理」です。
世の中にはいろいろの“真理”と言われるものがありますね。
数学的真理とか、科学的真理とか。
仏教でいわれる大宇宙の真理とは「すべての人が、本当の幸福になれる真理」のこと。
それを、2600年前、お釈迦様が仏の覚りを開かれて、悟られたわけです。
その悟った内容を、私たちに教えて下されたのが仏教です。
仏教には、だから、すべての人が本当の幸せになれる道が教えられている、ということなんですね。
お釈迦様の教えられた内容は、すべてお経に書き残されています。
お経は、お釈迦様の講演録というわけです。
「お経は、亡くなった人のために読む」とのが常識になっていますが、これも誤解の一つ。
生きている人に説かれた教えを記録したものがお経ですから、お経には生きている私が聞かないといけない内容が書かれてあります。
なので、仏教では、亡くなった人のためにお経を読むということはしません。
お経を読むのは、生きている私たちが教えを聞くため。
でも、難しい漢字ばかりだから、説法で教えていただくのです。
自業自得という仏教の言葉も、私たちを幸せに導くために説かれたもの。
「自」らの「業」の結果を「自」らが「得」ているということ。
ここで「業(ごう)」とは、行為のことです。
蒔かぬ種は生えません。蒔いた種は必ず生えます。
自分に引き起こった結果のすべては、自分の蒔いた種(行為)によるもの。
それを「あの人が悪い」「この人のせいだ」と他人のせいにし、うらみ、呪っていれば、ますます自分が不幸になるだけです。
自己を見つめ、「すべて自分の蒔いた種、自業自得であった」と反省してこそ、種まきが変わり、未来の結果も変わるのです。
仏教を聞くというのは、幸福になれる道を、仏の智恵に学ぶということなのです。
◆ つぶやき ◆
以前、テレビ番組で、こんな実験をやっていた。
通行人に扮したスタッフが、抱えていた袋からオレンジをバラバラとこぼす。
拾ってくれるかどうかを、いろいろな国で試す、というものだった。
ビックリするほど拾ってくれない国もあった。
素通りして、見向きもしない。
拾ったのは、20回中、1人だけ、とか。
(もちろん、文化的背景もあると思うが……)
驚いたのは、番組での実験では、日本は20回中、20回とも誰かが拾っていた。
しかも、みんな手で扱っていた。
他の国では、落ちたオレンジが転がっていくのを、足で止めたりする人が目に付いた。
だけど、日本人は、誰一人、足で止めたりする人はなかった。
追いかけて、手で拾うのだ。
そういう教育が、ちゃんと徹底しているところに感動した。
資本主義社会になって、大量消費で経済を回していく社会になってしまったけど、物を大切にする心は、ちゃんと受け継いでいると感じる。
(*^-^)
15日(日)は、富山県の高岡駅前にあるウィングウィング高岡という会場で仏教勉強会でした。
高岡駅前は、ちょうどその日、「日本海鍋まつり」という何とも食欲をかきたてるイベントを開催していて、ごったがえしていました。
器を手にして、「フゥフゥ」言いながら食べる参加者を尻目に、私はいつもの部屋に向かったわけです。
この日の勉強会に、仏教の話は初めてといわれる一組のご夫婦が参加しておられました。
退職し、富山の実家に戻ってきた、とのこと。
これまで県外で勤めておられたのでしょう。
家に、お仏壇はあるけれど、何をしていいのか?
お坊さんが来て、お経を読むけど、意味はサッパリ……。
そんなわけで、チラシの案内を見て「参加しよう」と思われたということでした。
お仏壇の真ん中には、仏さまが御安置されています。
これまで、その方は「お釈迦様だと思っていた」といわれました。
でも、浄土真宗で御安置するのは、「阿弥陀仏」という仏様です。
まして、「先祖」ではないんですね。
ここで少し「仏」について。
世の中では、仏=死人が常識になっていて、殺人犯が捕まらないと「これでは仏も浮かばれない」と言ったり、時代劇でも「仏の身元をあらえ」と使っていたりします。
仏教は、「仏」が説いた「教え」ですから、仏が死人のことだとすると、仏教は、死んだ人が説いた教え、というおかしなことになってしまいます。
だから、仏教では、亡くなった方のことを「仏」とは言わないんです。
「仏」の正しい意味は、最高のさとりを開かれた方のこと。
さとりと言ってもピンからキリまで、全部で52の位があります。
その最高のさとりの位を、仏覚(ぶっかく)と言われます。
仏のさとりのことです。
この最高の仏の覚りを開かれた方のことだけを、「仏」とか「仏様」といわれます。
“さとり”というのは、何をさとるのかと言えば「大宇宙の真理」です。
世の中にはいろいろの“真理”と言われるものがありますね。
数学的真理とか、科学的真理とか。
仏教でいわれる大宇宙の真理とは「すべての人が、本当の幸福になれる真理」のこと。
それを、2600年前、お釈迦様が仏の覚りを開かれて、悟られたわけです。
その悟った内容を、私たちに教えて下されたのが仏教です。
仏教には、だから、すべての人が本当の幸せになれる道が教えられている、ということなんですね。
お釈迦様の教えられた内容は、すべてお経に書き残されています。
お経は、お釈迦様の講演録というわけです。
「お経は、亡くなった人のために読む」とのが常識になっていますが、これも誤解の一つ。
生きている人に説かれた教えを記録したものがお経ですから、お経には生きている私が聞かないといけない内容が書かれてあります。
なので、仏教では、亡くなった人のためにお経を読むということはしません。
お経を読むのは、生きている私たちが教えを聞くため。
でも、難しい漢字ばかりだから、説法で教えていただくのです。
自業自得という仏教の言葉も、私たちを幸せに導くために説かれたもの。
「自」らの「業」の結果を「自」らが「得」ているということ。
ここで「業(ごう)」とは、行為のことです。
蒔かぬ種は生えません。蒔いた種は必ず生えます。
自分に引き起こった結果のすべては、自分の蒔いた種(行為)によるもの。
それを「あの人が悪い」「この人のせいだ」と他人のせいにし、うらみ、呪っていれば、ますます自分が不幸になるだけです。
自己を見つめ、「すべて自分の蒔いた種、自業自得であった」と反省してこそ、種まきが変わり、未来の結果も変わるのです。
仏教を聞くというのは、幸福になれる道を、仏の智恵に学ぶということなのです。
◆ つぶやき ◆
以前、テレビ番組で、こんな実験をやっていた。
通行人に扮したスタッフが、抱えていた袋からオレンジをバラバラとこぼす。
拾ってくれるかどうかを、いろいろな国で試す、というものだった。
ビックリするほど拾ってくれない国もあった。
素通りして、見向きもしない。
拾ったのは、20回中、1人だけ、とか。
(もちろん、文化的背景もあると思うが……)
驚いたのは、番組での実験では、日本は20回中、20回とも誰かが拾っていた。
しかも、みんな手で扱っていた。
他の国では、落ちたオレンジが転がっていくのを、足で止めたりする人が目に付いた。
だけど、日本人は、誰一人、足で止めたりする人はなかった。
追いかけて、手で拾うのだ。
そういう教育が、ちゃんと徹底しているところに感動した。
資本主義社会になって、大量消費で経済を回していく社会になってしまったけど、物を大切にする心は、ちゃんと受け継いでいると感じる。
(*^-^)