本当の自己を映す鏡とは、ありのままの自己を映す鏡です。

“ありのまま”とは、どんなことでしょう?

室町時代の蓮如上人と一休にこんな話があります。


ある時、どこからみても曲がりくねった大きな松の木に人だかりができている。

松の木の脇に、一休の書いた立て札が立っている。

「この松の木をまっすぐに見た者には金一貫文を与える」

一貫文とは、大金です。

大勢の人が、金目当てに何とかまっすぐに見ようとしているが、

どこから見ても曲がっている。

どこからもまっすぐには見えない。


そこを通りかった蓮如上人、立て札を見るなり、

「また一休のいたずらか」

とニッコリされ、一休の所へ向かった。

「あの松の木をまっすぐに見たから一貫文、頂こう」

すると奥から出てきた一休は

「あの立て札の裏を見てきたか?」


そこで蓮如上人が立て札の裏を確認すると、

「ただし本願寺の蓮如は除く」

と書かれてあった。

一休も、蓮如上人にはわかってしまうと思ったのでしょう。


では、蓮如上人は、どのように松の木をまっすぐに見たのでしょうか?

種明かしはこうです。

「この曲がった松を『曲がった松じゃなぁ』と見るのが、まっすぐに見ること。

 曲がった松の木を、まっすぐに見ようとするのが曲がった見方」


曲がったものをまっすぐに見ようとするのが“邪見(じゃけん)”、

曲がったものを曲がったものとありのままに見てゆくのが“正見(しょうけん)”です。


ありのままの自己を映す鏡が3枚目の鏡、法鏡です。

“法”とは“真実”“ありのまま”ということ。


そこにはいったいどんな姿が映るのか、

それを教えられのがブッダの教えです。


◆ ひとりごと ◆


『忠臣蔵』で知られる大石内蔵助に、こんな不覚があった、という話を朝礼で聞きました。

主君の敵討ちを果たすために、大石内蔵助は、相手を騙すために遊興三昧の生活を送ります。

仇討ちの気持ちはない、と吉良上野介に見せかけるためです。

味方にも知らせずにとった行動でしたから、味方にも疑われることになりました。

「一体、大石はどうしたのじゃ」

「酒と女に腰が抜けては、仇討ちは無理じゃろ」

「人は、あてにならんものじゃのォ」

口々に言われます。


そこで大石の気持ちを確かめようと、一人の賢い男が計画します。

酔っ払ったついでに、いつも立ち寄る茶店の主人に1本の掛け軸を渡し、

大石に賛をを書かせる、というものです。

※「賛」とは、軸の絵に合った言葉を書いて貰うこと


掛け軸には、濁った池に身を潜めている魚を、狙っているカワセミが描かれています。

そして、手はずどおり大石は、掛け軸に賛を書きました。

“濁りえの にごりに 魚はひそむとも

    などかわせみの とらでおくべき”

にごりえに潜む魚を吉良上野介にみたて、狙うカワセミを自分に引き当てての

大石内蔵助の決意でした。


帰宅した大石が、ついつい本音を漏らしたことに気がつき、

「大石一生の不覚じゃ。

 だれかあの軸を50両でも100両でもよい。

 早く買い求めてくるのだ」

と叫んだといいます。


しかし、後の祭り。

すでに掛け軸は人手に渡っていました。

もし吉良側の手に渡っていたら、あの仇討ちは成功していたかどうか

とさえ言われているそうです。


傍目には、遊びほうけているように見えても、

心には変わらぬ固い信念がある。

だからこそ、目的を果たすことができたのだなぁ、と思いました。


信念を貫く人になりたいです。



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