「死ぬのが怖いって言う人あるけどさ、
別に死んだら死んだときだよ。
どうせみんな死ぬんだからビクビクするのもバカらしい。
考えるだけ損だよ」
という人があります。
本当にその主張を貫けるでしょうか?
生まれたからには、必ず死なねばなりません。
死は、100%確実な私たちの未来です。
「死がそんなに恐ろしいとは思えない」
という人がありますが、確かにそれは事実です。
私たちは多くの人の死を見たり聞いたりして来ました。
親しい人の死には声をあげて泣き、涙を流して悲しみました。
しかし、しばらくすると涙は乾き、悲しみも薄らぎます。
そしてどんな悲しい時でも、
死んでゆく本人の悲しみや寂しさを、
自分自身のことのように切実に受けとめたことは、
一度もありませんでした。
なかったというよりも、出来なかったというのが適当でしょう。
「死」は「ある出来事」であり、
「事件」であって所詮は「他人事」でしかなかったのです。
その死がいよいよ自分の上にふりかかって来ると、
「死」
に対する実感はコロッと変わります。
「今までは他人が死ぬぞと思いしに、
俺が死ぬとはこいつたまらん」
と、ある医者が叫んだように、
動物園で見ていた虎と、ジャングルの中で突如出くわした虎とは、
天地雲泥の違いがあるようなものです。
医師から、
「至急、手術をしなければならない」
と言われたとき、眼前が真っ暗になって、
脚元が崩れるような気がした、とよく言われます。
それは手術が怖いからではなく、死ぬのが怖いからです。
病院へ入る、手術を受ける、腹が切り開かれ血が沢山噴き出る、
あと縫い合わせてうまくゆくかどうか、
医師や看護婦に絶対失敗はないか。
診断の間違いや、手術のミスや、
ちょっとした手落ちで死ぬことがある。
腹を開けてみたら思ったより重症で手術出来ず、
そのまま縫い合わせたという話も聞く。
自分の場合もそうではなかろうか?
という不安におそわれます。
死ねばどうなるのだろう?
他人は私の死体を火葬場に運び、焼いて灰にするだろう。
この肉体が灰になるとは、とても信じられない。
目が見えなくなる。
物音が一切聞こえなくなる。
自分というものがなくなる。
こんな恐ろしいことがあるでしょうか?
「助けてくれ!助けてくれ!」
そう言って、そこら中を這いずり廻って
助けを求めたい気持ちになり、ただ怖いだけです。
平生どんなに、理想とか真理とかを口にし、
知識や教養を山積みしていても、
総てが音をたてて崩れ去り、
何の支えにもならないことが、
そのときハッキリと知らされるでしょう。
「忘れていた、忘れていた、やがて死ぬ身であることを……」
と叫んだ文豪もあります。
そうなってから驚いても手遅れです。
「人間はみな死ぬ」
分かり切ったことです。
しかし、誰しも直ぐ死ぬとは考えていません。
ということは、誰でも本当に自分が死ぬとは思われないということです。
知識では知っていても、実感が全くないのです。
自分の死の直前まで人間はそのことについては、
完全な目隠しをされているのです。
だからどれほど想像力を逞しくしても、
死の実態には遠く及ばないものなのです。
真面目に自分の死と向き合うには、
仏教を聞く以外にありません。
次回は、人間の実相の「藤蔓」について
話をしましょう☆
━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━
昨日、「仏教とキリスト教、どこが違うんですか?」
と尋ねられました。
キリスト教は、神を信じたら、死んだら天国にいける、と教えます。
仏教は、生きている現在ただ今、絶対の幸福に救われ、
死ねば極楽浄土に往ける、と教えられます。
仏教の救いはこの世と死後の二度です。
キリスト教は、運命は神がつくって与えたもの、と教えます。
仏教は、運命は自らの行為が生み出したもの、と教えられます。
キリスト教は、万物は神が創造したものだ、と教えます。
仏教は、万物は“成住壊空”をくり返していると教えられます。
成(じょう)─ 形が生まれ成長する過程。
住(じゅう)─ 出来上がったものがしばらく安定状態にある。
壊(え) ─ 形が崩壊する過程。
空(くう) ─ 空という状態に移行する。
なので、仏教に万物の創造主の出番はありません。
キリスト教の神は、万物の創造主であり、全知全能であり、
愛の神である、と教えられます。
仏教は、そのような神の存在は認めません。
「じゃあ、仏は? 神みたいなものでないの?」
いいえ、そうではありません。
仏とは、最高の覚りを開かれた方のことです。
すべての人が本当の幸福になれる真理を体得された方が仏で、
この地球上では、お釈迦様ただ一人です。
日本の場合、“宗教”は、どれも同じようなもので、
何を信じても、そんなに変わらない、と思われているところがあります。
日本の教育では、宗教について教えられることは
ほとんどありませんから、そのように思う人が多いのは
仕方がないことかもしれませんが、まったく賛成できません。
右へ行けば幸せになれる、と教えるものと、
左へ行けば幸せになれる、と教えるものと、
変わらないはずがありません。まったく異なります。
お金や財産、地位や名誉、健康に恵まれれば幸せになれる、
だから、この神を信じなさい、恵まれますよ、と教えるものと、
お金や財産、地位や名誉、健康は、あくまで幸福の材料であって、
幸福そのものではないのですよ、と教えるものと、
全然ちがいます。
「宗教」という言葉そのものは、もともと仏教の別名です。
人生の“宗(むね)”として生きていく“教え”です。
仏教は、人生の目的を教えられたものです。
何のために人間に生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
なぜ苦しくとも生きねばならないのか、
生きる目的をハッキリとお釈迦様は教えられました。
生きる目的が大事だから、
生きる手段が大事になります。
つまり、お金や財産、仕事や家族、趣味、
政治、経済、科学、医学、法律などが大事になります。
人生の目的に向かって生きる時、
一切の手段は光を放つのです。
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別に死んだら死んだときだよ。
どうせみんな死ぬんだからビクビクするのもバカらしい。
考えるだけ損だよ」
という人があります。
本当にその主張を貫けるでしょうか?
生まれたからには、必ず死なねばなりません。
死は、100%確実な私たちの未来です。
「死がそんなに恐ろしいとは思えない」
という人がありますが、確かにそれは事実です。
私たちは多くの人の死を見たり聞いたりして来ました。
親しい人の死には声をあげて泣き、涙を流して悲しみました。
しかし、しばらくすると涙は乾き、悲しみも薄らぎます。
そしてどんな悲しい時でも、
死んでゆく本人の悲しみや寂しさを、
自分自身のことのように切実に受けとめたことは、
一度もありませんでした。
なかったというよりも、出来なかったというのが適当でしょう。
「死」は「ある出来事」であり、
「事件」であって所詮は「他人事」でしかなかったのです。
その死がいよいよ自分の上にふりかかって来ると、
「死」
に対する実感はコロッと変わります。
「今までは他人が死ぬぞと思いしに、
俺が死ぬとはこいつたまらん」
と、ある医者が叫んだように、
動物園で見ていた虎と、ジャングルの中で突如出くわした虎とは、
天地雲泥の違いがあるようなものです。
医師から、
「至急、手術をしなければならない」
と言われたとき、眼前が真っ暗になって、
脚元が崩れるような気がした、とよく言われます。
それは手術が怖いからではなく、死ぬのが怖いからです。
病院へ入る、手術を受ける、腹が切り開かれ血が沢山噴き出る、
あと縫い合わせてうまくゆくかどうか、
医師や看護婦に絶対失敗はないか。
診断の間違いや、手術のミスや、
ちょっとした手落ちで死ぬことがある。
腹を開けてみたら思ったより重症で手術出来ず、
そのまま縫い合わせたという話も聞く。
自分の場合もそうではなかろうか?
という不安におそわれます。
死ねばどうなるのだろう?
他人は私の死体を火葬場に運び、焼いて灰にするだろう。
この肉体が灰になるとは、とても信じられない。
目が見えなくなる。
物音が一切聞こえなくなる。
自分というものがなくなる。
こんな恐ろしいことがあるでしょうか?
「助けてくれ!助けてくれ!」
そう言って、そこら中を這いずり廻って
助けを求めたい気持ちになり、ただ怖いだけです。
平生どんなに、理想とか真理とかを口にし、
知識や教養を山積みしていても、
総てが音をたてて崩れ去り、
何の支えにもならないことが、
そのときハッキリと知らされるでしょう。
「忘れていた、忘れていた、やがて死ぬ身であることを……」
と叫んだ文豪もあります。
そうなってから驚いても手遅れです。
「人間はみな死ぬ」
分かり切ったことです。
しかし、誰しも直ぐ死ぬとは考えていません。
ということは、誰でも本当に自分が死ぬとは思われないということです。
知識では知っていても、実感が全くないのです。
自分の死の直前まで人間はそのことについては、
完全な目隠しをされているのです。
だからどれほど想像力を逞しくしても、
死の実態には遠く及ばないものなのです。
真面目に自分の死と向き合うには、
仏教を聞く以外にありません。
次回は、人間の実相の「藤蔓」について
話をしましょう☆
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◆◆ ひとりごと ━
昨日、「仏教とキリスト教、どこが違うんですか?」
と尋ねられました。
キリスト教は、神を信じたら、死んだら天国にいける、と教えます。
仏教は、生きている現在ただ今、絶対の幸福に救われ、
死ねば極楽浄土に往ける、と教えられます。
仏教の救いはこの世と死後の二度です。
キリスト教は、運命は神がつくって与えたもの、と教えます。
仏教は、運命は自らの行為が生み出したもの、と教えられます。
キリスト教は、万物は神が創造したものだ、と教えます。
仏教は、万物は“成住壊空”をくり返していると教えられます。
成(じょう)─ 形が生まれ成長する過程。
住(じゅう)─ 出来上がったものがしばらく安定状態にある。
壊(え) ─ 形が崩壊する過程。
空(くう) ─ 空という状態に移行する。
なので、仏教に万物の創造主の出番はありません。
キリスト教の神は、万物の創造主であり、全知全能であり、
愛の神である、と教えられます。
仏教は、そのような神の存在は認めません。
「じゃあ、仏は? 神みたいなものでないの?」
いいえ、そうではありません。
仏とは、最高の覚りを開かれた方のことです。
すべての人が本当の幸福になれる真理を体得された方が仏で、
この地球上では、お釈迦様ただ一人です。
日本の場合、“宗教”は、どれも同じようなもので、
何を信じても、そんなに変わらない、と思われているところがあります。
日本の教育では、宗教について教えられることは
ほとんどありませんから、そのように思う人が多いのは
仕方がないことかもしれませんが、まったく賛成できません。
右へ行けば幸せになれる、と教えるものと、
左へ行けば幸せになれる、と教えるものと、
変わらないはずがありません。まったく異なります。
お金や財産、地位や名誉、健康に恵まれれば幸せになれる、
だから、この神を信じなさい、恵まれますよ、と教えるものと、
お金や財産、地位や名誉、健康は、あくまで幸福の材料であって、
幸福そのものではないのですよ、と教えるものと、
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「宗教」という言葉そのものは、もともと仏教の別名です。
人生の“宗(むね)”として生きていく“教え”です。
仏教は、人生の目的を教えられたものです。
何のために人間に生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
なぜ苦しくとも生きねばならないのか、
生きる目的をハッキリとお釈迦様は教えられました。
生きる目的が大事だから、
生きる手段が大事になります。
つまり、お金や財産、仕事や家族、趣味、
政治、経済、科学、医学、法律などが大事になります。
人生の目的に向かって生きる時、
一切の手段は光を放つのです。
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