「亡くなった先祖の供養は、どうすればいいの?」
と、よく聞かれます。
昔から、亡くして初めて親の恩を知るといわれますが、
生きているうちは分からなくても、親を失った時、
まじめな人なら必ず、不孝を重ねた後悔が起きるものでしょう。
大切な伴侶や愛児を亡くした時も、
様々な悔恨に襲われ、悲嘆に沈みます。
墓に布団も着せられず、
遺骨にごちそうも食べさせられず、
何もしないでは済まされないこの心を
どうすればよいのか、と思い悩むのは当然でしょう。
だからなのか、
「立派な葬式や法事を勤めるしか、
このやりきれぬ気持ちを静める方法はない」
と思って、盛大な葬式や法事が、亡き先祖の喜ぶことだと思って
勤める人も少なくありません。
しかし、親鸞聖人は決して、そうは教えられてはいません。
親や先祖の恩に報いようとするならば、
親の最も喜ぶことは何か、先祖の最も望むことは何かを
よく知ることが大切です。
それはあえて亡くなった先祖を呼び出すまでもなく、
私たちが子供や家族に何を望んでいるかを考えればわかります。
「正しく生きて、幸せになってほしい」
これに尽きるのではないでしょうか?
8月1日(日)は、富山県射水市の親鸞会館で、
追悼法要が勤められました。
逝去者のご芳名が掲示されていましたが、
昨年の今ごろは、会館で、親しく話をしていた方が、
もうこの世にはいないのだなぁ、と思うと、
なんとも言えない気持ちになりました。
しかし、それはまた100%確実な自分の未来の姿です。
その未来とは、もしかしたら、今晩かもしれないのです。
逝去者の一覧には、亡くなった享年(きょうねん)が
記されています。
70代や80代、90代の方ばかりではありません。
10歳にも満たない子ども、
20代、30代の方も多く記載されていました。
「老少不定」(ろうしょうふじょう)と教えられますが、
“老”は年老いた人、“少”は若い人、
“不定”は、決まっていない、という意味ですから、
死ぬのは年老いた人が先で、若い人は後というルールなんて、
まったく決まっていない、ということです。
本当にそうだなぁ、と思います。
若く幼い命も、無常の風にさそわれている現実は、
日々の報道が知らせている通りです。
人間の心を持たない鬼ではないかと思うような
母親の仕打ちで殺される子どももあります。
テレビ局の記者とカメラマンの遭難死も、
2人とも、その日が自分の死ぬ日だとは、
夢にも思っていなかったことでしょう。
無常の風は、激しく吹きすさんでいます。
「死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る」
有名な『徒然草』の一節です。
“死は順序を待たない。
しかも、死は必ずしも前から来るとは限らない。
いつの間にか、後ろに迫っているのだ。
人は皆、一度は死ななければならないことは知っているが、
それほど差し迫っているとは思えない。
ところが、死は、ある日、突然、やってくるのだ”
追悼する私たちも、いつ追悼される身になるかわかりません。
明日の命の保証はないのです。
亡くなった人の死を悲しむ心情はわかりますが、
故人を哀れむのみで、自分は永遠に死なないつもり、
“死”は自分と無関係のように思っていて、
どうして真の追悼ができるでしょうか。
何のために生まれてきたのかも知らず、
朝から晩まで、欲に振り回され、
仕事、勉強、趣味やレジャーに心は占領され、
むなしく終える人生に、何の意味があるというのでしょう。
生きている時は、これこそ本当だ、間違いないものだと思って、
必死にかき集めた金も地位も、家族も、
臨終には一切を置いていかねばなりません。
あくせく働いた人生は一体何だったのか。
それまでの苦労に、どんな意味があったのか。
「無駄だった。バカだった、バカだった」
と、泣いて死んでゆく人生の末路を、蓮如上人は、
「あわれというもなかなかおろかなり」
と、悲しんでおられます。
そのような人生を、果たして、先祖が、親が、喜ぶでしょうか。
改めて、
「亡くなった先祖の供養は、どうすればいいの?」
この問いの答えをお釈迦様に聞いてみましょう。
お釈迦様は、それには
「本師本仏の阿弥陀仏の本願を
聞信(もんしん)する一本道しかない」
と教えていかれました。
阿弥陀仏の救いにあい、永久の闇より救われて
苦しみ悩みに渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じ、
明るく強く、たくましく生き抜かせていただける身になることが、
亡くなった方の最も喜ばれることなのです。
仏教を説かれたお釈迦様は、
「阿弥陀仏の本願」一つを教えていかれました。
阿弥陀仏の本願?
それって、何ですか?
初めて聞かれる方もあると思います。
とっても大事なことです。
浄土真宗親鸞会の公式ホームページに解説されている
阿弥陀仏の本願とは、どんなことなのか
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0401.htm
こちらのページをぜひご覧下さい。
━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━
追悼法要は、親鸞聖人の
『恩徳讃』(おんどくさん)についてのお話でした。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
浄土真宗では、御法話の最後に、みんなで歌います。
「阿弥陀如来の大恩と、その本願を伝え給うた恩師の厚恩は、
身を粉に、骨砕きても済みませぬ。
微塵の報謝もできぬわが身に、ただ泣かされるばかりである」
と親鸞聖人がおっしゃっているお言葉です。
親鸞聖人ほど、命の限り粉骨砕身、
阿弥陀如来のご恩、
その阿弥陀如来の救いを正しく伝えて下された方々の
報謝に徹し抜かれた方はおられませんでした。
仏教では、人の評価は
恩を知り(知恩)、恩を感じ(感恩)、恩に報いる(報恩)
心の強度で決まるといわれます。
親鸞聖人は、「恩徳讃」で、
永遠の幸福に生かされた「因」(原因)に、
「大慈悲の阿弥陀如来」の計り知れないご恩と、
「師主知識」の厚恩の2つをあげられています。
「師主知識」とは、元祖はお釈迦様、
そして、阿弥陀仏の本願を正しく伝えて下さった、
インド・中国・日本の7人の高僧方のことです。
それらの七高僧を『正信偈』では
「印度西天の論家」
(インドの龍樹菩薩・天親菩薩)、
「中夏日域の高僧」
(中国の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の源信僧都・法然上人)
と仰有っています。
「恩」という字は、「因」を知る「心」と書きます。
親鸞聖人のような知恩報徳は叶わなくても、
近づこうと努力するのが親鸞聖人の教えを学ぶ人にとって
大切な心がけですね。
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昔から、亡くして初めて親の恩を知るといわれますが、
生きているうちは分からなくても、親を失った時、
まじめな人なら必ず、不孝を重ねた後悔が起きるものでしょう。
大切な伴侶や愛児を亡くした時も、
様々な悔恨に襲われ、悲嘆に沈みます。
墓に布団も着せられず、
遺骨にごちそうも食べさせられず、
何もしないでは済まされないこの心を
どうすればよいのか、と思い悩むのは当然でしょう。
だからなのか、
「立派な葬式や法事を勤めるしか、
このやりきれぬ気持ちを静める方法はない」
と思って、盛大な葬式や法事が、亡き先祖の喜ぶことだと思って
勤める人も少なくありません。
しかし、親鸞聖人は決して、そうは教えられてはいません。
親や先祖の恩に報いようとするならば、
親の最も喜ぶことは何か、先祖の最も望むことは何かを
よく知ることが大切です。
それはあえて亡くなった先祖を呼び出すまでもなく、
私たちが子供や家族に何を望んでいるかを考えればわかります。
「正しく生きて、幸せになってほしい」
これに尽きるのではないでしょうか?
8月1日(日)は、富山県射水市の親鸞会館で、
追悼法要が勤められました。
逝去者のご芳名が掲示されていましたが、
昨年の今ごろは、会館で、親しく話をしていた方が、
もうこの世にはいないのだなぁ、と思うと、
なんとも言えない気持ちになりました。
しかし、それはまた100%確実な自分の未来の姿です。
その未来とは、もしかしたら、今晩かもしれないのです。
逝去者の一覧には、亡くなった享年(きょうねん)が
記されています。
70代や80代、90代の方ばかりではありません。
10歳にも満たない子ども、
20代、30代の方も多く記載されていました。
「老少不定」(ろうしょうふじょう)と教えられますが、
“老”は年老いた人、“少”は若い人、
“不定”は、決まっていない、という意味ですから、
死ぬのは年老いた人が先で、若い人は後というルールなんて、
まったく決まっていない、ということです。
本当にそうだなぁ、と思います。
若く幼い命も、無常の風にさそわれている現実は、
日々の報道が知らせている通りです。
人間の心を持たない鬼ではないかと思うような
母親の仕打ちで殺される子どももあります。
テレビ局の記者とカメラマンの遭難死も、
2人とも、その日が自分の死ぬ日だとは、
夢にも思っていなかったことでしょう。
無常の風は、激しく吹きすさんでいます。
「死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る」
有名な『徒然草』の一節です。
“死は順序を待たない。
しかも、死は必ずしも前から来るとは限らない。
いつの間にか、後ろに迫っているのだ。
人は皆、一度は死ななければならないことは知っているが、
それほど差し迫っているとは思えない。
ところが、死は、ある日、突然、やってくるのだ”
追悼する私たちも、いつ追悼される身になるかわかりません。
明日の命の保証はないのです。
亡くなった人の死を悲しむ心情はわかりますが、
故人を哀れむのみで、自分は永遠に死なないつもり、
“死”は自分と無関係のように思っていて、
どうして真の追悼ができるでしょうか。
何のために生まれてきたのかも知らず、
朝から晩まで、欲に振り回され、
仕事、勉強、趣味やレジャーに心は占領され、
むなしく終える人生に、何の意味があるというのでしょう。
生きている時は、これこそ本当だ、間違いないものだと思って、
必死にかき集めた金も地位も、家族も、
臨終には一切を置いていかねばなりません。
あくせく働いた人生は一体何だったのか。
それまでの苦労に、どんな意味があったのか。
「無駄だった。バカだった、バカだった」
と、泣いて死んでゆく人生の末路を、蓮如上人は、
「あわれというもなかなかおろかなり」
と、悲しんでおられます。
そのような人生を、果たして、先祖が、親が、喜ぶでしょうか。
改めて、
「亡くなった先祖の供養は、どうすればいいの?」
この問いの答えをお釈迦様に聞いてみましょう。
お釈迦様は、それには
「本師本仏の阿弥陀仏の本願を
聞信(もんしん)する一本道しかない」
と教えていかれました。
阿弥陀仏の救いにあい、永久の闇より救われて
苦しみ悩みに渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じ、
明るく強く、たくましく生き抜かせていただける身になることが、
亡くなった方の最も喜ばれることなのです。
仏教を説かれたお釈迦様は、
「阿弥陀仏の本願」一つを教えていかれました。
阿弥陀仏の本願?
それって、何ですか?
初めて聞かれる方もあると思います。
とっても大事なことです。
浄土真宗親鸞会の公式ホームページに解説されている
阿弥陀仏の本願とは、どんなことなのか
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━ ぴょんたの ◆◆
◆◆ ひとりごと ━
追悼法要は、親鸞聖人の
『恩徳讃』(おんどくさん)についてのお話でした。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
浄土真宗では、御法話の最後に、みんなで歌います。
「阿弥陀如来の大恩と、その本願を伝え給うた恩師の厚恩は、
身を粉に、骨砕きても済みませぬ。
微塵の報謝もできぬわが身に、ただ泣かされるばかりである」
と親鸞聖人がおっしゃっているお言葉です。
親鸞聖人ほど、命の限り粉骨砕身、
阿弥陀如来のご恩、
その阿弥陀如来の救いを正しく伝えて下された方々の
報謝に徹し抜かれた方はおられませんでした。
仏教では、人の評価は
恩を知り(知恩)、恩を感じ(感恩)、恩に報いる(報恩)
心の強度で決まるといわれます。
親鸞聖人は、「恩徳讃」で、
永遠の幸福に生かされた「因」(原因)に、
「大慈悲の阿弥陀如来」の計り知れないご恩と、
「師主知識」の厚恩の2つをあげられています。
「師主知識」とは、元祖はお釈迦様、
そして、阿弥陀仏の本願を正しく伝えて下さった、
インド・中国・日本の7人の高僧方のことです。
それらの七高僧を『正信偈』では
「印度西天の論家」
(インドの龍樹菩薩・天親菩薩)、
「中夏日域の高僧」
(中国の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の源信僧都・法然上人)
と仰有っています。
「恩」という字は、「因」を知る「心」と書きます。
親鸞聖人のような知恩報徳は叶わなくても、
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