後生を説く仏教は、

死後変わらない魂が有るという考え(これを「有の見」という)

ではないか、と思うかもしれませんが、そうではありません。




仏教では「無我」(むが)と教えられます。



固定不変の“我”というものは本来無い。

つまり有の見のような、死んでも変わらない魂というものは無いということです。



そして、あらゆるものは因縁所生(いんねんしょしょう)のものと説かれます。


因と縁とが結びついて、仮にでき上がっているものということです。




昔の人はこれを、


「引きよせて 結べば柴の 庵にて

  解くればもとの 野原なりけり」



と教えています。



(いおり)というものは、野原の柴を集めて結べばできますが、

縁がなくなってバラバラになれば、元の野原になります。




一時、庵というものがあるのであって、

変わらぬ「庵」というものがあるのではありません。




でも、因縁でいろいろのものが集まって造られています。


柱、土台の石、壁、畳、かわら、ふすま、などが集まって、

あのような形になっているものを「家」といっているのです。



因縁が離れてバラバラになれば、家はどこにもありません。



家というものが、いつまでもあるように思いますが、

やがて因縁がなくなれば、跡形もなくなりますから、

「家」という固定不変の実体はないのです。


因縁のある間だけ家ということです。




自動車ならば約3万個分部品が、因縁和合(いんねんわごう)して、

あのような形にでき上がっている間、「自動車」といわれるのです。


ハンドル、シート、ギア……、と部品が散乱していたら、

だれも自動車とはいわないでしょう。




日本製のロケットH—ⅡAなら、

実に約28万個の部品が、精密に組み合わさっている間、ロケットなのです。




例外なく皆そうです。


これを仏教で諸法無我(しょほうむが)といわれます。




“私”“私”と言っていますが、

変わらぬ「我」という実体は無いということが、無我です。



仏教の深い哲理ですが、分かりやすく言うとそういうことです。





仏教では、過去世、現在世、未来世と続く

私たちの永遠の生命を阿頼耶識(あらやしき)といわれ、


「暴流(ぼうる)のごとし」


と説かれています。



暴流とは滝のことです。



遠くから眺めれば、一枚の白布を垂らしたように見える滝も、

実際にはたくさんの水滴が激しく変化しながら続いているのです。


一瞬たりとも同じ滝であることはありません。常に変化し続けています。



そのように阿頼耶識は、

自分の行為を次から次と業力としておさめて絶えず変化し、

流転輪廻(るてんりんね)していくのです。




ゆえにお釈迦さまは、


「無我なるが故に、常有に非ず」(阿含経:あごんきょう)


と言われ、固定不変の霊魂を否定されています。




だから、死ねば魂が墓の下にジッととどまったり、

山や木や石に宿り、いつまでも残っていることなどできないと教えられます。





四国の讃岐にいた庄松同行(しょうまどうぎょう)が、

74歳でいよいよ臨終を迎えた時のこと。



永く一人暮らしだった庄松は、だれも葬式を出す者がいませんでした。


ふびんに思った仲間たちが、お金を出し合い、

彼の墓を建てることになったのです。


早速そのことを告げるため、皆で庄松を訪ねました。


「庄松、おまえが死んだら、立派な墓を建ててやるから喜べよ」


しかし庄松は、


「オレは、そんな石の下におらんぞ!」


と叫んで息を引き取りました。



平生に阿弥陀仏に救い摂られ、

極楽参りがハッキリしていた庄松には、

墓など用事がなかったのです。



“死んで墓の下におれると思っているのか。

 後生は一大事だぞ。

 肉体の後始末に力を入れて、

 信心決定(しんじんけつじょう:仏法の目的)を忘れてはならないぞ”



と、法友たちの迷いを正した庄松の大喝でした。




このように教えるのが仏教ですから、

ましてや、霊魂が生きている人間に

禍福(かふく:わざわいや幸福)を与える力があるなどと説くものは

迷信だと教えられるのです。



すべての人は、各自の造った業によって、

死ねば種々の形に心身が変化し、遠く独り去っていくものであると、

次のようにお釈迦さまは説かれています。



「遠く他所に到りぬれば能く見る者なし。

 善悪自然に行を追いて生ずる所、

 窈窈冥冥として別離久しく長し。

 道路同じからずして会い見ること期無し、

 甚だ難く甚だ難し、また相値うことを得んや」

 (大無量寿経)


“遠く他の所へ去ってしまえば、再び会い見ることはできない。

 一人一人の造った善悪の業により、次の生へ生まれ変わっていく。

 行く先は遠く、暗くしてたよる道もなく、

 愛する者とも永劫の別れをしなければならぬ。

 各自の行為が違うから、死出の旅路は孤独なのである”




親鸞聖人は、


「一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず」(教行信証)


と言われ、蓮如上人は、


「われらが今度の一大事の後生」(領解文)


と言われているとおり、


すべての人の後生に一大事のあることを教え、

その解決の道を説示されているのが仏法です。



龍樹菩薩が、有無の二見をことごとく破られたのは、

後生の一大事を説く正しい教えを明らかにするため

だったのです。


お釈迦さまは、人間の実相の譬えで、

後生の一大事を“深海”に例えられました。



仏教は、この後生の一大事を知ることに始まり、

後生の一大事の解決に終わる、と教えられますから、

「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、

仏法は何十年聞いても、わかるものではありません。


次回、後生の一大事について、解説をしたいと思います。


>> つづき「後生の一大事とは」


■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■



車に乗ってラジオを聴いていると、

YUI“GLORIA(グロリア)”がよく流れてきます。


「青春時代で人生が変わるなんて、誰が言ったんだろう?」


というキャッチコピー。



中には、こんなフレーズもあって、自分の受験時代を思い出したりしました。


・・・・・・・・・・


成功者の 声高々に語るエピソード他人事みたい

今の私 小さな部屋で考えている


 (中略)


夢じゃないはずよ 報われると信じてる 本当は怖いけど


(『 GLORIA 』YUI )

・・・・・・・・・・


合格体験記を読んだりしていると、

来春、自分も、こんなこと書いているんだろうか?

イメージできない姿に、ますます不安になったりします。


「これだけがんばったんだから」

と自分を励まそうとするけど、

「でも、他の人がもっとがんばっていたら……」

考え出すと、またまた不安になる。



でも、因果の道理はハッキリと教えています。


「蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は必ず生える」

と。


蒔かない種は生えません。

合格という結果をつかみたいのなら、

そのための種まきに必死になるしかありません。


学力だけじゃない。


当日、万全の体調で試験に臨めるかどうか、

忘れ物をしないかどうか、

リラックスして望めるかどうか、


それもみんな、その人の種まきの結果です。


持てる力のすべてを発揮できるように念じています。


皆さんの受験時代はどうでしたか?

(*^-^)




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