「人間死んだらどうなるか」
という問題は、これまでいろいろと議論されてきましたが、
大きく分類すれば
●死後変わらぬ魂が存在するという考え(これを「有の見」という)
と
●死後何も無くなるという考え(これを「無の見」という)
の2つになります。
※有の見は、常見(じょうけん)ともいう。
※無の見は、断見(だんけん)ともいう。
「死後、変わらぬ魂が存在する」という考えも、
「死後、何もなくなる」という考えも、
仏教では、真実を知らない間違った考えだと教えられ、
龍樹菩薩は、この誤った考えを、徹底的に打ち破られました。
“私”とは何ですか?
と尋ねると、頭のてっぺんから足のつま先まで、自分の身体を指さして、
「これが私」
と答え、
「だから死ねば焼いて灰になって終わり。死後なんて蕪いよ」
と思っている人がありますが、仏教にこんな話があります。
お釈迦さまに大号尊者(だいごうそんじゃ)という弟子がある。
彼が商人であった時、他国からの帰途、道に迷って日が暮れた。
宿もないので仕方なく、墓場の近くで寝ていると不気味な音に目が覚める。
一匹の赤鬼が、人間の死体を持ってやってくるではないか。
急いで木に登って震えながら眺めていると、間もなく青鬼がやってきた。
「その死体をよこせ」
と青鬼が言う。
「これはオレが先に見つけたもの、渡さぬ」
という赤鬼と大ゲンカが始まった。
その時である。
赤鬼は木の上の大号を指さして、
「あそこに、さっきから見ている人間がいる。
あれに聞けば分かろう。
証人になってもらおうじゃないか」
と言いだした。
大号は驚いた。
いずれにしても食い殺されるのは避けられぬ。
ならば真実を言おうと決意する。
「それは赤鬼のものである」
と証言した。
青鬼は怒った。
大号をひきずり下ろし、片足を抜いて食べてしまった。
気の毒に思った赤鬼は、だれかの死体の片足を取ってきて大号に接いでやった。
激昂した青鬼は、さらに両手を抜いて食べる。
赤鬼はまた、ほかの死体の両手を取ってきて大号につけてやった。
青鬼は大号の全身を次から次に食べた。
赤鬼はそのあとから、大号の身体を元どおりに修復してやる。
青鬼が帰ったあと、
「ご苦労であった。おまえが真実を証言してくれて気持ちがよかった」
と赤鬼は礼を言って立ち去った。
一人残された大号は、歩いてみたが元の身体と何ら変わらない。
しかし今の自分の手足は、己の物でないことだけは間違いない。
どこのだれの手やら足やら、と考えた。
街へ帰った彼は、
「この身体はだれのものですか」
と大声で叫びながら歩いたので、大号尊者とあだ名されるようになったという。
これは単なるおとぎ話ではありません。
胃も腸も、顔や手足も、身体の器官すべてが工場で生産され、
必要に応じて付け替える。
そんな時代が来るかもしれません。
心臓病患者は、障害のある心臓を、あれこれ治療するのはやめて、
心臓メーカーから新品を買い求め、手術で取り替え、
再び元気を取り戻すことができる。
胃腸の悪い人も、新しい人工胃腸と交換して丈夫になれるし、
手足が動かなくなれば、これまた新品の人工手足と取り替える。
もちろん濁った血液は、きれいな血液と全部入れ替えもできる、
という具合に未来の医学は、肉体丸ごと替えるかもしれません。
“私”の肉体全部を入れ替えた時、
一体“私”とは何者なのでしょうか。
いや、現に私たちの肉体は約60兆の細胞でできていますが、
絶えず新陳代謝し、おおよそ7年間で全部入れ替わるといわれています。
つまり7年前の私とは、物質的には全然別人ということになります。
しかし実際は、別人の感じはなく、やはり同一人に違いないでしょう。
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、
「万物は流転する(パンタ・レイ)」
という有名な言葉を残しています。
すべてのものは、変化し続け、いっときとして同じではないということです。
「同じ川に二度入ることはできない」
とも言っています。
なぜなら、二度めに入った時は、
川の流れも自分自身もすでに変わっているからです。
こんな小話があります。
ある男が借金した。債権者が取り立てに行ったところ、
「借りた人間と、オレとは別人だ。
なにしろパンタ・レイだからね」
と返済を断った。
怒った債権者は、その男をポカポカ殴りケガさせる。
「何をする!」
と腹を立て、殴られた男は裁判所に訴えたが、殴った男は、
「殴った人間と、オレとは別人だ。
なにしろパンタ・レイだからね」
とやり返したという。
肉体がどんなに変化しても、自分のした行為に責任を持たねばならないのは当然でしょう。
してみれば、そこには一貫して続いている統一的主体を認めねばなりません。
仏教では、私たちの行為を業(ごう)といいます。
業は目に見えない力となって残り、決して消滅しません。
これを業力不滅(ごうりきふめつ)といいます。
そして必ず果報を現します。
いわゆる、まかぬタネは生えませんが、まいたタネは必ず生えると教えられます。
肉体を入れ替えても、焼いて灰にしても、業不滅なるがゆえに、その業報を受けねばなりません。
ここに仏教では、死後も存続する不滅の生命を教え、
死後(後生)を否定する「無の見」を、
「因果応報なるが故に、来世なきに非ず」(阿含経)
と排斥しています。
私たちの生命は、肉体が生じてより滅するまでの現世のみではありません。
悠久の過去より永遠の未来へと、とうとうと流れる大河のように続いているのです。
肉体はちょうど、水面にできて、しばらく流れて消える泡のようなものにすぎません。
死ねば何もなくなって終わりではないのです。
例えば、かりに1人の人を殺して、1回の死刑という結果を受けるとすれば、
10人殺した者は、後の9人分を来世で受けねばなりません。
100人殺せば、99人分の業報を受けることになります。
因が変われば、それに応じて結果が変わる。
そうでなければ道理に合いません。
まいたタネを刈り取らねばならぬ未来世(後生)を、仏教は厳然として説き明かしているのです。
「過去世や未来世のことなんか分かるものかい」
という声が聞こえてきそうですが、お釈迦さまはこう説かれています。
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
未来の果、を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」
(因果経)
この意味は、
“過去の因は現在の果に現れており、未来の果は現在の因によって発現するのだから、
現在を徹見すれば過去も未来もすべてが分かる”
ということです。
分かりやすく例えるならば、暗がりの中で何の種をまいたか分からなくても、知る方法があるでしょう。
生えてきた芽を見れば、
「あの時、ダイコンの種をまいたのだな」
とか、
「トマトの種だったのだな」
と分かります。
また、今何の種をまいているかを見れば、将来、何が出てくるか分かるでしょう。
スイカの種ならばスイカ、カボチャの種ならばカボチャが出てくるのです。
このような因果の道理から仏教は、
“現在の自己を徹見すれば、後生が分かる”
と教えます。
“どんな後生を生み出す因を造っているか、凝視せよ”
と「現在」を仏教は、最も重視するのです。
>> つづき「死後変わらない魂が存在するの?」
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そうそう、ちょっとビックリする記事を見つけました。
あの大手のイオンが、昨年から葬儀事業をスタートして、それがかなり好調?とか。
不透明な葬儀料金を透明化して案内しているのが消費者に受け入れられているようです。
「葬儀ビジネス」とか言われるのも、もう一般化しているご時世です。
葬儀を“故人のため”と思っている誤解を正さないといけないのですが、
それには、葬式・法事・墓番が仕事と思っている僧侶の頭の中を正して、
正しい仏教の教えを伝えていくことが本来の僧侶の仕事であることを知っていただく必要があるでしょう。
詳しくはこちらの記事を参照
→★葬式・法事・墓参りと仏教の教え
*今回のひまわり日記 はいかがでしたか?
「へぇ!」「なるほど!」「勉強になった」
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という問題は、これまでいろいろと議論されてきましたが、
大きく分類すれば
●死後変わらぬ魂が存在するという考え(これを「有の見」という)
と
●死後何も無くなるという考え(これを「無の見」という)
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※有の見は、常見(じょうけん)ともいう。
※無の見は、断見(だんけん)ともいう。
「死後、変わらぬ魂が存在する」という考えも、
「死後、何もなくなる」という考えも、
仏教では、真実を知らない間違った考えだと教えられ、
龍樹菩薩は、この誤った考えを、徹底的に打ち破られました。
“私”とは何ですか?
と尋ねると、頭のてっぺんから足のつま先まで、自分の身体を指さして、
「これが私」
と答え、
「だから死ねば焼いて灰になって終わり。死後なんて蕪いよ」
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お釈迦さまに大号尊者(だいごうそんじゃ)という弟子がある。
彼が商人であった時、他国からの帰途、道に迷って日が暮れた。
宿もないので仕方なく、墓場の近くで寝ていると不気味な音に目が覚める。
一匹の赤鬼が、人間の死体を持ってやってくるではないか。
急いで木に登って震えながら眺めていると、間もなく青鬼がやってきた。
「その死体をよこせ」
と青鬼が言う。
「これはオレが先に見つけたもの、渡さぬ」
という赤鬼と大ゲンカが始まった。
その時である。
赤鬼は木の上の大号を指さして、
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あれに聞けば分かろう。
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と言いだした。
大号は驚いた。
いずれにしても食い殺されるのは避けられぬ。
ならば真実を言おうと決意する。
「それは赤鬼のものである」
と証言した。
青鬼は怒った。
大号をひきずり下ろし、片足を抜いて食べてしまった。
気の毒に思った赤鬼は、だれかの死体の片足を取ってきて大号に接いでやった。
激昂した青鬼は、さらに両手を抜いて食べる。
赤鬼はまた、ほかの死体の両手を取ってきて大号につけてやった。
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と赤鬼は礼を言って立ち去った。
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どこのだれの手やら足やら、と考えた。
街へ帰った彼は、
「この身体はだれのものですか」
と大声で叫びながら歩いたので、大号尊者とあだ名されるようになったという。
これは単なるおとぎ話ではありません。
胃も腸も、顔や手足も、身体の器官すべてが工場で生産され、
必要に応じて付け替える。
そんな時代が来るかもしれません。
心臓病患者は、障害のある心臓を、あれこれ治療するのはやめて、
心臓メーカーから新品を買い求め、手術で取り替え、
再び元気を取り戻すことができる。
胃腸の悪い人も、新しい人工胃腸と交換して丈夫になれるし、
手足が動かなくなれば、これまた新品の人工手足と取り替える。
もちろん濁った血液は、きれいな血液と全部入れ替えもできる、
という具合に未来の医学は、肉体丸ごと替えるかもしれません。
“私”の肉体全部を入れ替えた時、
一体“私”とは何者なのでしょうか。
いや、現に私たちの肉体は約60兆の細胞でできていますが、
絶えず新陳代謝し、おおよそ7年間で全部入れ替わるといわれています。
つまり7年前の私とは、物質的には全然別人ということになります。
しかし実際は、別人の感じはなく、やはり同一人に違いないでしょう。
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、
「万物は流転する(パンタ・レイ)」
という有名な言葉を残しています。
すべてのものは、変化し続け、いっときとして同じではないということです。
「同じ川に二度入ることはできない」
とも言っています。
なぜなら、二度めに入った時は、
川の流れも自分自身もすでに変わっているからです。
こんな小話があります。
ある男が借金した。債権者が取り立てに行ったところ、
「借りた人間と、オレとは別人だ。
なにしろパンタ・レイだからね」
と返済を断った。
怒った債権者は、その男をポカポカ殴りケガさせる。
「何をする!」
と腹を立て、殴られた男は裁判所に訴えたが、殴った男は、
「殴った人間と、オレとは別人だ。
なにしろパンタ・レイだからね」
とやり返したという。
肉体がどんなに変化しても、自分のした行為に責任を持たねばならないのは当然でしょう。
してみれば、そこには一貫して続いている統一的主体を認めねばなりません。
仏教では、私たちの行為を業(ごう)といいます。
業は目に見えない力となって残り、決して消滅しません。
これを業力不滅(ごうりきふめつ)といいます。
そして必ず果報を現します。
いわゆる、まかぬタネは生えませんが、まいたタネは必ず生えると教えられます。
肉体を入れ替えても、焼いて灰にしても、業不滅なるがゆえに、その業報を受けねばなりません。
ここに仏教では、死後も存続する不滅の生命を教え、
死後(後生)を否定する「無の見」を、
「因果応報なるが故に、来世なきに非ず」(阿含経)
と排斥しています。
私たちの生命は、肉体が生じてより滅するまでの現世のみではありません。
悠久の過去より永遠の未来へと、とうとうと流れる大河のように続いているのです。
肉体はちょうど、水面にできて、しばらく流れて消える泡のようなものにすぎません。
死ねば何もなくなって終わりではないのです。
例えば、かりに1人の人を殺して、1回の死刑という結果を受けるとすれば、
10人殺した者は、後の9人分を来世で受けねばなりません。
100人殺せば、99人分の業報を受けることになります。
因が変われば、それに応じて結果が変わる。
そうでなければ道理に合いません。
まいたタネを刈り取らねばならぬ未来世(後生)を、仏教は厳然として説き明かしているのです。
「過去世や未来世のことなんか分かるものかい」
という声が聞こえてきそうですが、お釈迦さまはこう説かれています。
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
未来の果、を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」
(因果経)
この意味は、
“過去の因は現在の果に現れており、未来の果は現在の因によって発現するのだから、
現在を徹見すれば過去も未来もすべてが分かる”
ということです。
分かりやすく例えるならば、暗がりの中で何の種をまいたか分からなくても、知る方法があるでしょう。
生えてきた芽を見れば、
「あの時、ダイコンの種をまいたのだな」
とか、
「トマトの種だったのだな」
と分かります。
また、今何の種をまいているかを見れば、将来、何が出てくるか分かるでしょう。
スイカの種ならばスイカ、カボチャの種ならばカボチャが出てくるのです。
このような因果の道理から仏教は、
“現在の自己を徹見すれば、後生が分かる”
と教えます。
“どんな後生を生み出す因を造っているか、凝視せよ”
と「現在」を仏教は、最も重視するのです。
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