人間の真実のすがたを譬えられたお釈迦さまの話を解説しています。


※例え話はこちら



藤蔓が切れたら、旅人はどうなるのでしょう?

当然、下に落下していきます。

その先とは?


お釈迦さまは、「深海」と説いておられます。

そこの知れない深い海は、何を譬えたものなのでしょう?


これは、人間は、死んだらどうなるか、を教えられたものなのです。


人は、死んだらどうなるのでしょう?


皆さんは、考えたこと、ありますか?


死んだらどうなるもなにも、無になるだけでしょ?

と思う人が多いかもしれません。


死んだ後が、あると思う人にはある。ないと思う人にはない。

そんな答え方をする人もあります。


良いことをしていれば天国に行けるんだよ、と答える人もあるでしょう。

大地にかえる、星になる、風になる、いろいろな答えが返ってきます。


「死んだ後なんかないよ」

という人も、徹底して、そのように思っているかというと、

「きっとそうじゃないかなぁ」

という程度です。


その証拠に、知人や友人が死ぬと、

「ご霊前で」

とか、

「ご冥福をいのります」

と言います。


「霊前」は故人の霊の前のこと。

「冥福」は“冥土の幸福”のこと。


冥土とは、死後の世界のことなので、あの世へいった故人の幸せを祈るのが、冥土の幸福を祈る、ということです。


ですから、いずれも死後を想定してのことです。


果ては

「安らかにお眠りください」

「迷わずに成仏してください」

などと、涙ながらに語りかけられます。


遭難のときなどは、空や船から花束や飲食物が投げられるのも、しばしばです。


単なる儀礼とは、とても思えません。その表情は深刻で、しぐさも神妙なのです。


毎年8月に戦没者の慰霊祭が行われます。

慰霊とは、霊を慰めることです。


幸福な相手を“慰める”ということは、ありえません。その必要がないからです。


死者の霊が存在して、慰めを必要としている、という心情がないと、このような行事は成り立ちません。


「死んだ後なんてないよ」

と言いながら、墓参りをしたり、冥土の幸福をいのったりするのは、何か否定しきれないものがあるからでしょう。


「そんなの社交辞令だよ」

と笑ってすませられるのは、肉親などの死別にあわない、幸せなときだけでしょう。



「死んだ後が、あると思う人にはある。ないと思う人にはない」

これも、本当にこのように思っているわけではないでしょう。


宇宙は、あると思っている人にはある。ないと思う人にはない。

ウルトラマンは、いると思っている人にはいるし、いないと思う人にはない。


私たちの気持ち一つで、実在したり、しなかったり、ということが決まるのではありません。


死後どうなるか、という重大な問題が、生前の思い一つで決まる、というようなものではありません。

これは、お分かりになるでしょう。


「人間死んだらどうなるか」

有史以来、いろいろに議論されてきましたが、大別すれば「有の見(うのけん)」と「無の見(むのけん)」の2つになります。


有の見は、常見(じょうけん)ともいい、死後変わらぬ魂が存在するという考え方です。

無の見は、断見(だんけん)ともいい、死後何も無くなるという見方です。


断見・常見ともに仏教では、真実を知らない外道(げどう=道理に外れた教え)と教えられます。


親鸞聖人が大変尊敬しておられたインドの龍樹菩薩は、この有無の二見を徹底的に打ち破られました。

龍樹菩薩は、お釈迦さまの滅後700年後に、南インドに生まれられた方で、

あらゆる宗派の人から尊敬され、「八宗の祖師」といわれます。

また人類史上、最も偉大な方はお釈迦さまと言われますが、そのお釈迦さまに次ぐ聖者として、「小釈迦」とも仰がれています。


龍樹菩薩について、もう少し、詳しく学んでみましょう。


>> 龍樹菩薩の話へ



■┓徒然なる ●┓
┗● ひとり言┗■


お釈迦さまは、「人生は苦なり」と説かれました。


でも、そう言うと、


「いや、人生楽ありゃ、苦もあるさ、と言われるじゃないか。

 苦あり、楽あり、が人生。

 苦しみがあるからこそ、楽しみがあるんだよ。

 仏教は、悲観的な教えだな」


と言う人があります。

“と言う人があります”と書くと他人事のようですが、実は、私もそう思っていました。


でも、結論から言えば、「人生は苦なり」です。


みんなが“楽しみ”と言っているものとは、どんなものでしょう?


ゲーム、スポーツ、カラオケ、音楽鑑賞などの趣味とか、恋愛や仕事など、いろいろと思い浮かべるものがあると思います。


確かに、“楽しい”と感じるのは事実です。

しかし、それも最初のうちだけ。

ずうっと続けていると、次第に飽きたり、疲れたり、イヤになったり、してはこないでしょうか?


楽しかったはずのことが、「もういい」「飽きた」「疲れたからやめよう」というような気持ちに変わってしまうのもまた事実です。


本質が楽しみであるなら、いつまで経っても、楽しみであり続けるはず。

ところが、悲しいことに、楽しみが苦しみに変質してしまう……。


ちょうど、かゆいところをかいていると、最初は気持ちよくても、だんだん痛くなってくるのと同じようなものです。


“苦しみの新しい間を楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみと言う”


初めて聞いたとき、なるほどなぁ、と納得させられました。


世の中が本当に楽しみにあふれているなら、年間3万人もの自殺者を出すような社会にはならないでしょう。

世界でも有数の恵まれた国である日本の現状をみると、“楽しみとは何か”について、考えずにいられません。


望んでいることができれば満足であり、幸せであり、楽しいんだ、という考えに疑いを持たない人がほとんどです。

でも、その考えが生み出した社会で、うつ病や自殺、凶悪犯罪の増加が問題になっています。

大前提としている“考え”そのものに疑問を投げかけてみる必要があるのではないでしょうか?




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